識別コード | 3505-0041 |
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資料名 | 勲八等瑞宝章 |
資料名(英語) | |
寄贈者(カナ) | 岸田 哲平(キシダ テッペイ) |
寄贈者(英語) | Teppei Kishida |
受入年月日 | 2018/3/13 |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | 50×74 |
寸法(その他) | |
被爆地(旧町名) | |
被爆地(現町名) | |
爆心地からの距離(m) | |
数量 | 1 |
内容 | 寄贈者の祖父・岸田貢宜さんのもの。貢宜さん(当時29歳)は、中国軍管区司令部報道班員として、被爆の翌日から広島市内の惨状をカメラに収めた。 貢宜さんは、8月4日から軍の任務で広島県高田郡吉田町に出張であったため、被爆当日、原爆投下の知らせを聞いて芸備線の列車に乗り、正午頃に戸坂駅まで戻った。広島駅方面が大火災のため戸坂駅で下車し、三篠橋を通って対岸の大芝町の土手に渡り基町の軍管区司令部にたどり着いたが、そこは大火災となっていた。6日当日は、西練兵場から福屋、比治山、袋町、紙屋町、相生橋、横川の順に歩いた。コンタックスを携帯していたが地獄のような惨状であり、苦しみ助けを求める人たちを助け上げたりしていた。写真を写すどころか、一杯の水を飲ませるのが精いっぱいであった。 翌7日から被爆状況を撮影することを決意し、8月10日頃まで35枚ほどをカメラに収めた。死傷者の痛々しい姿を撮影することが辛かったため、できるだけ悲惨な場面は撮影しないようにして建物の破壊状況や軍の活動などを重点的に撮影した。 貢宜さんは8月13日頃から体調を崩し、39度の高熱や血便の症状が出て、18日・19日頃に妻と子どもの疎開先に赴き、半年近く療養した。 |
ブロック別 | |
展示説明文 | |
展示説明文(英語) | |
資料性質 | 戦中資料 |