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被爆資料

識別コード 3404-0003
資料名 風呂敷
資料名(英語) Furoshiki (wrapping cloth)
寄贈者(カナ) 村上 進(ムラカミ ススム)
寄贈者(英語) Susumu Murakami
受入年月日 1983/06/22
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 500×500
寸法(その他)
被爆地(旧町名) 水主町
被爆地(現町名) 加古町
爆心地からの距離(m) 900
数量 1
内容 寄贈者村上進さんの弟弘康さん(当時17歳)は、勤務先の広島県庁で宿直勤務を終え、出勤してきた同僚達と挨拶をかわしていたとき被爆した。何が起きたのか、どのくらい時間がたったのかも分からなかったが、気がついたときにはコンクリート柱の下敷きになって動けなかった。どうにか自力で脱出し、救護所になっていた海田の病院へたどり着いた。「動いたら死ぬ」と言われるほどの大怪我を負っていたが、次々に運ばれてくる人々がばたばたと死んで行くのがたまらなくなり、薬だけもらって翌7日、御調郡向島町の実家に帰りついた。しかし、脱水症状が悪化、苦しみぬいて8月19日に亡くなった。
ブロック別 吉島・舟入・観音地区
展示説明文 村上進さんの弟、村上弘康さん(当時17歳)は、勤務先で被爆し、コンクリートの柱の下敷きになりましたが、自力で脱出し、救護所の病院にたどりつきました。弘康さんの傷は深く「動いたら死ぬ」と医者から言われていましたが、救護所に運び込まれる負傷者がばたばたと亡くなるのを見て、たまらない気持ちになり、薬だけもらって、7日に汽車や船を乗り継いで向島町(現・広島県尾道市)の実家に帰りました。8月19日、弘康さんは脱水症状を悪化させ、苦しみぬいて亡くなりました。
弘康さんは被爆前、東京で働いていましたが、空襲が激しくなったため、進さんの勧めで広島へ戻っていました。
この薬品は弘康さんが救護所の病院でもらったブトウ糖などの医薬品のうち、使われなかったもので、弘康さんが亡くなるまでの2週間、命を支えました。
展示説明文(英語) Susumu Murakami's younger brother, Hiroyasu Murakami (then, 17), was exposed to the bomb at his workplace. Although he was pinned under a concrete pillar, he was able to free himself and make his way to a hospital aid station. His wounds were deep and the doctor told him he would die if he moved, but he was unable to contain his emotions seeing the injured people brought to the aid station dying one after another. Receiving only some medicine, he made his way back to his home in Mukaishima Town (now, Onomichi City). On August 19th, his dehydration worsened and he died in pain.
Hiroyasu had been working in Tokyo before the bombing but moved back to Hiroshima because of intensifying air raids, following Susumu's advice.
資料性質 被爆資料

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