内容 |
崇徳中学校1年生だった浅野綜智(そうち)さん(当時12歳)は、学徒動員先である八丁堀・白島方面の建物疎開作業現場で被爆した。親戚の西尾幹三(にしおみきそう)さんが入市、常葉橋のたもとで、綜智さんを発見した。7日夜11時頃に叔母の西尾博子さん宅に、綜智さんを乗せたリヤカーが到着。綜智さんは、帽子のひさしより下の顔、腕や足など服を着ていなかった部分に大やけどを負っていた。綜智さんは、6日の夜は、寝たら死体と間違われて焼かれてしまうと思い、寝なかったんだと語った。博子さんが、寝なかったのなら、眠いでしょう、今日は早く寝なさいと声をかけると、そこにいたみんなに「おやすみなさい」といって眠り、7日の夜遅くそのまま息を引き取った。15日朝に愛媛県大三島の実家から、父浅野三智(さんち)さんと祖母トマさんが到着したが、綜智さんはすでに遺骨となっていた。7月末の日曜の朝、綜智さんは実家に戻った。境内で遊んでいた弟妹たちは、帰ってきた兄を見つけて喜び、母弥笑(やえみ)さんは綜智さんを風呂に入れ、頭を剃ってやった。夏休みなので実家に残れとすすめたが、月曜からの作業に行かなくてはと、数時間だけ滞在しただけでその日のうちに広島ヘ戻った。それが、綜智さんが家族と過ごした最後となってしまった。この手袋は被爆時に身につけていたもので、母弥笑さんが綜智さんの遺品として大事に保存していたもの。 |