識別コード | 3505-0052 |
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資料名 | 櫛(鼈甲製金蒔絵) |
資料名(英語) | Tortoiseshell comb with lacquer decoration using gold powders |
寄贈者(カナ) | 飯田 國彦(イイダ クニヒコ) |
寄贈者(英語) | IIDA Kunihiko |
受入年月日 | 2021/12/09 |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | 97×58×3 |
寸法(その他) | |
被爆地(旧町名) | |
被爆地(現町名) | |
爆心地からの距離(m) | |
数量 | 1 |
内容 | 飯田武さん・稔子さんは、1940年(昭和15年)4月2日に結婚式を挙げた。 1945年(昭和20年)4月、武さんは召集され、約2か月後の6月、妻と二人の子どもを遺して沖縄で亡くなった。 その年の8月5日、稔子さん(当時25歳)は田舎に引っ越す挨拶のため、長女の眞基子さん(当時4歳)と長男の國彦さん(当時3歳)を連れて、水主町にあった実家に泊まっていた。翌8月6日、原爆の投下により、爆心地から約1キロメートル弱の距離にあった実家は倒壊し、家族7人が下敷きになった。皆どうにか脱出し、裸足で必死に住吉橋東詰までたどり着いたが、そこから先へは瓦礫や炎で進めなくなった。夕方近くになり、稔子さんと二人の子どもたちは暁部隊の舟に救助され、宮島で数日過ごしたのち山県郡の親戚宅に移り、親戚の人たちの看病を受けた。しかし、原爆症によって髪は抜け、唇を始め体は青黒く変色し、発熱、下血、鼻血と症状は悪化し、9月4日、5日に稔子さんと眞基子さんは相次いで亡くなった。國彦さんも同じような状態で寝たきりだったが、どうにか一命を取り留めた。 これは稔子さんが婚礼の際身に着けたもので、被爆前日の8月5日に他の荷物と一緒に疎開させていたため無事だった。 |
ブロック別 | |
展示説明文 | |
展示説明文(英語) | |
資料性質 | 被爆関連資料 |