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被爆資料

識別コード 3105-0006
資料名 夏和服
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 石堂 逸子(イシドウ イツコ)
寄贈者(英語) Itsuko Ishido
受入年月日 1967/08/18
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 390×1230
寸法(その他)
被爆地(旧町名) 鶴見町
被爆地(現町名) 鶴見町
爆心地からの距離(m) 1500
数量 1
内容 石堂逸子さん(当時44歳)は、勤労奉仕隊として鶴見町に出動し、建物疎開作業の注意を受けている途中に被爆。熱線により顔面から喉、胸、右肩から右腕にかけて火傷を負った。当日着ていたこの和服も、胸、右肩、右袖が焦げて焼失している。
火傷はケロイドになり、逸子さんは外出や人の集まるところへ出ることを控えるように過ごしていた。戦後復員した長男には、ケロイドがうずがゆいと話していたという。
逸子さんの次女・睦子さんは、材木町にあった山香和服裁縫所に嫁いでおり、義母とともに材木町で白骨となった。

石堂逸子さんの手記より:
(中略)私はあの日(八月六日)温品の疎開先からわざわざ山根町に帰り勤労奉仕隊に参加しました。
雲ひとつない空にまぶしい日の光が照りつけて来ました。長い時間待たされてようやく仕事にかかるために色々の注意を受けておりました。その時です。あの青白い無数の光の群像を見たのは。
「ああ、これは直撃だな、駄目だ」
すると子供のこと、みんなのことなどが頭をかすめて行きました。気が付いて見ると地面に伏せて居りました。見渡すと誰もおられないで、近くの防空壕に行くと四、五人おられました。
「あなたは誰ですか」
近藤さんが声をかけて下さいました。名まえを告げると
「まあ奥さまネ、ひどいことになって。」
と泣いてしまわれました。そのとき私には自分の顔がそれほど変わっていたとは気がつきませんでした。着物の衿から胸のあたり、袖まで焼けていたのはあとになって知りました。
「顔はお前のが一番ヒドイ火傷だよ。鏡を見せてやろう」と、主人に手鏡を見せられたのは十日ものちでした。
私は一週間位経ってから、馬鈴薯で治療することになりました。それは薯を下ろし金でおろして患部にたっぷりつけ、乾いたら新しいのを上に置いて古いのと一緒に取り去り、新しいのをつけます。この場合乾いたのをすぐ取りのぞこうとするととても取れません。新しいのを置いてやわらげて取らねばいけません。
乾くのにあまり時間がかかりませんので非常に根気のいる治療です。
お医者さまにかかることも出来なかった私は、長い療養をしました。頭の髪も前の方が焼けてなく、長い顔が余計に長く、胸から腕にかけての火傷は「ウズバレ」て悲惨。お化け以上の凄い姿ではありませんか。これが自分の姿かと思うと、とてもたまらず、とめどなく流れて来る涙をどうしようもありません。
「もう鏡は見まい。人さまの前にも出たくない」と、考えたのもそのときでした。
白血球も三千に下り、鼻血もたびたび出ます。ときには一ケ月も出血がとまらないときだってあるのです。頭はいつもおもく気の晴れ晴れするときとてありません。
(石堂逸子「もう鏡は見まい」、原水爆禁止広島母の会発行『ひろしまの河』No.11、昭和40年1月1日、p.7)
ブロック別 比治山・仁保地区
展示説明文
展示説明文(英語)
資料性質 被爆資料

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