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被爆資料

識別コード 3102-0112
資料名 兄の遺品のズボン
資料名(英語) Older brother's trousers
寄贈者(カナ) 横山 滋(ヨコヤマ シゲル)
寄贈者(英語) YOKOYAMA Shigeru
受入年月日 2012/11/30
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 400×860
寸法(その他)
被爆地(旧町名) 三川町
被爆地(現町名) 三川町
爆心地からの距離(m) 880
数量 1
内容 横山高明さん(当時25歳)は、爆心地から約880mの三川町の自宅屋内で被爆。高明さんは東京大学文学部卒業後、同大研究室の学生として研究を続けていたが、無類の蔵書家だった祖父の貴重本の整理のため、被爆の約2週間前に広島の実家に帰っていたのだった。自宅は倒壊し、やけどやけがを負いながらも、家族で万一の時に避難することに決めていた牛田町早稲田区の家に高明さんも必死にたどりついた。同じく自宅で被爆し、大やけどを負った父の寧道さん(当時59歳)、姉の満枝さん(当時32歳)も必死に帰ってきた。その家では体調を崩していた弟の滋さん(当時21歳)が母のユキさん(当時52歳)と共に数日前から療養しており、高明さんらは懸命な看病を受けたが、8月9日、大やけどを負っていた寧道さんが亡くなり、残った家族は家財の一部を疎開していた高田郡郷野村へ向かった。やけどで不自由な体をおして高明さんも歩き、ここまで来れば空襲の心配もないだろうと安心したのもつかの間で、8月15日の終戦の詔勅を聞いた頃から高熱や下痢に苦しみ、何も喉を通らなくなった。医学生だった滋さんは、どうにかしようと必死に手を尽くしたが、高明さんは8月22日に亡くなった。これは高明さんが被爆時に着ていたもので、母のユキさんが形見として大切にしていた。
ブロック別 紙屋町・本通地区
展示説明文 兄の遺品のズボン
横山高明さん(当時25歳)は自宅で被爆しやけどやけがを負いました。被爆後、高明さんは必死に牛田町の家に逃れました。8月9日に父親の寧道さんが亡くなり、残された家族は家財の一部を疎開していた高田郡郷野村へ向かいました。やけどで不自由な体をおして高明さんも歩き、初めて見る、降るような星空に、ここまで来れば空襲の心配もないだろうと安心したのもつかの間、8月15日の終戦の詔勅を聞いたころから高熱や下痢に苦しめられ、何も喉を通らなくなりました。医学生だった弟の滋さんは、どうにかしようと必死に手を尽くしましたが、高明さんは8月22日に亡くなりました。

横山さんのお話から
兄をどうにか手当てしようと教科書を見ましたが、その状態では「処置のしようがない」とありました。しかし、まだ薬もあり、何とかしようと処置をしましたが、どうにもなりませんでした。兄の遺体を棺に入れ、荼毘にふす煙が上がるのを、ずっと一日静かに見ていました。
展示説明文(英語) Older brother's trousers
Takaaki Yokoyama (then, 25) experienced the atomic bombing at his home where he received burns. After the bombing, he desperately made his way to the house in Ushita-machi. On August 9, his father, Yasumichi, died and his remaining family members gathered some of their household belongings and set out for Gono Village, Takata County. Incapacitated by the burns, Takaaki pushed himself to walk. Looking up at the night sky full of stars for the first time, he felt relief that they would be free of air raids in the countryside. Shortly after, around August 15 when the end of the war was announced, he came down with a high fever and diarrhea and was unable to eat anything. Shigeru, who had been a medical student at the time, did all he could, but Takaaki died on August 22.

Shigeru Yokoyama recalls:
Looking for ways to care for my older brother, I consulted my textbook, but it said that there was no treatment for his condition. However, we still had some medicine, so I tried to treat him with that, but nothing worked. We placed his body in a casket and I spent the entire day watching the smoke slowly rise from the cremation fire.
資料性質 被爆資料

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