識別コード | 3101-0206 |
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資料名 | 上着 |
資料名(英語) | Jacket |
寄贈者(カナ) | 濱田 良子(ハマダ リョウコ) |
寄贈者(英語) | HAMADA Ryoko |
受入年月日 | 2014/9/3 |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | 820×630 |
寸法(その他) | |
被爆地(旧町名) | 小町 |
被爆地(現町名) | 小町 |
爆心地からの距離(m) | 680m |
数量 | 1 |
内容 | 寄贈者の兄・濱田才さん(当時17歳)は、勤務先の中国配電本社で被爆した。爆風に吹き飛ばされたが、幸い大きなけがはなく、8月8日、自力で狩留家村の自宅へ帰ってきた。やがて髪が抜けてしまい、8月19日午後、才さんは亡くなった。妹の満子さん(当時13歳)も市内で被爆し、大やけどを負って自宅へ帰ってきており、母のミヨノさんは、その看病に付ききりだった。ミヨノさんは、けがもなく、まさか亡くなってしまうとは思っていなかった才さんの面倒をみられなかったことを悔やみ続けた。19日に才さんと満子さんが相次いで亡くなり、二人の子どもを一度に亡くしたミヨノさんは、倒れてしまった。その後、ミヨノさんは朝晩の読経を欠かさず、遺品を大切に守り続け、2003(平成15)年に98歳で亡くなるまで、生涯ずっと子どもたちのことを忘れることはなかった。 |
ブロック別 | 国泰寺・千田地区 |
展示説明文 | 上着・腕時計・身分証 寄贈/濱田良子氏 濱田才さん(当時17歳)は、勤務先の中国配電本社の2階で被爆しました。爆風で吹き飛ばされましたが、8月8日、郊外の自宅に帰ってきました。 帰宅した才さんは、無傷でしたが、やがて髪の毛が抜け、体調が悪くなりました。そして8月19日の午後、亡くなりました。 (才さんと満子さんの妹・良子さんのお話しより) 私は戦後生まれなので、兄と姉に会ったことはありません。 兄や姉が生きていたらどんなに心丈夫だっただろうと、いつも思っていました。 子どもたちを悼み続ける父母の姿をいつも見ていたし、兄や姉への思いは忘れたことはありません。 母は亡くなるまで、朝晩の読経とお寺へのお聴聞を忘れませんでした。仏壇の前でも「もうちょっとで行かしてもらうけんね」と話しかけていました。 |
展示説明文(英語) | Jacket, wristwatch, ID card Donated by Ryoko Hamada Hajime Hamada (then, 17) was exposed to the atomic bomb on the second floor of his work place, the Chugoku Power Distribution Company. He was hurled to the ground by the blast, but returned to his house in the suburbs on August 8. He was not injured when he came home. However, he soon began to lose his hair and became sick, and eventually died on the evening of August 19. (From the account of Ryoko, a younger sister of Hajime and Michiko) I was born after the war, so I never met my brother or sister. I've always thought about how much more secure I would have felt if they had both been alive. I've always seen my parents lamenting the death of my brother and sister, and not a day has passed without thinking of them. My mother read Buddhist sutras every morning and evening and visited the temple to listen to the monk's Buddhist sermons until she died. She would say to my brother and sister in front of the Buddhist altar, "I'm coming to you soon." |
資料性質 | 被爆資料 |