識別コード | 3101-0097 |
---|---|
資料名 | 中学生の学生服 |
資料名(英語) | Junior high student's uniform |
寄贈者(カナ) | 河本 忠雄(コウモト タダオ) |
寄贈者(英語) | Tadao Komoto |
受入年月日 | 1973/01/18 |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | 740×550 |
寸法(その他) | |
被爆地(旧町名) | 中島新町 |
被爆地(現町名) | 中島町 |
爆心地からの距離(m) | 700 |
数量 | 1 |
内容 | 県立広島工業学校1年生の河本梶雄さん(当時12歳)は、動員学徒として中島新町の建物疎開作業現場で被爆し、消息を絶った。父の来さん(当時46歳)と兄の忠雄さん(当時18歳)は、梶雄さんが被爆したと思われるあたりで、一人一人の遺体をひっくり返して必死に梶雄さんを捜した。3日後に梶雄さんの学生服の上着を、被爆場所から数百メートル北側の本川べりで発見したが、梶雄さんの行方は分からなかった。山県郡の自宅で梶雄さんの帰りを待っていた母・君代さん(当時36歳)は、毎日気が狂わんばかりに、息子の消息を求めていた。結局、どうしても梶雄さんの行方は分からないまま、その年の9月ごろ、この学生服を遺骨代わりに自宅で葬儀が行われた。その後、被爆後多くの負傷者が運ばれた似島から、梶雄さんの遺骨と形見となった財布が送られてきた。 妹の満子さん(当時9歳)のお話から 優しく、利発で賢い兄でした。すぐ上の兄だったので、魚釣りやビー玉でよく遊びました。被爆の数日前、短い休みで帰省してきた兄と近所の川で釣りをして遊び、「今度帰るときにはお土産買ってきてね」と別れました。まさかその時には、それが最後の別れになるとは思いもしませんでした。被爆後、父と長兄が市内を捜しまわりましたが、どうしても行方は分かりませんでした。山県郡の実家で待っていた母は、近所に市内から帰った子どもがいると聞くと、兄も帰ってきてはいまいか、少しでも消息はないかと、毎日気も狂わんばかりにその家に通っていました。結局、兄は見つからず、焼け跡で見つけた兄の学生服で9月ごろお葬式をしました。背中が破れていたのを覚えています。それからしばらく経って、似島から「遺骨がある」と連絡が来ました。兄と一緒に似島へ運ばれた友人が、兄が先に亡くなった時「河本梶雄君だ」と伝えてくれたので、名前が分かったようです。 |
ブロック別 | 吉島・舟入・観音地区 |
展示説明文 | |
展示説明文(英語) | |
資料性質 | 被爆資料 |