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被爆資料

識別コード 3101-0062
資料名 軍服
資料名(英語) Military jacket
寄贈者(カナ) 河村 和国(カワムラ カズクニ)
寄贈者(英語) Kazukuni Kawamura
受入年月日 1977/04/20
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 520×730
寸法(その他)
被爆地(旧町名) 水主町
被爆地(現町名) 加古町
爆心地からの距離(m) 1100
数量 1
内容 河村勲さん(当時29歳)は、義兄の渋谷勝さんと共に、水主町の建物疎開作業現場で被爆した。建物の下敷になったが自力で脱出し、川辺で倒れていたところを救助された。その後すぐ、重傷の身ながら40kmの道を歩いて所属部隊に連絡し、自宅に戻った。涙を流す妻スガエさん(当時29歳)を「元気で帰ったのだから泣くな」と励ましたが、8月14日に高熱が出はじめ、鼻血が止まらなくなった。8月20日、妊娠していたスガエさんが長女を出産した日、勲さんは死亡した。勲さんと共に被爆したスガエさんの兄、渋谷勝さんも8月6日死亡している。
ブロック別 吉島・舟入・観音地区
展示説明文 軍服
爆心地から1,100 m 水主町 河村和国寄贈
河村勲さん(当時29歳)は建物疎開作業現場で被爆しました。建物の下敷きになりましたが、自力で脱出し、痛む足を引きずりながら広島県東部の所属部隊に連絡に行きました。
任務を終え自宅に戻った勲さんは再会して涙を流す妻のスガヱさんを「元気で帰ったのだから泣くな」と励ましましたが、8月14日から高熱が出始め、鼻血が止まらなくなりました。スガヱさんは当時臨月でしたが、懸命に看病しました。
8月20日、陣痛が始まったスガヱさんは勲さんの側を離れなければなりませんでした。その間に、勲さんは産まれてくる子の顔を見ることなく、息を引き取りました。
展示説明文(英語) Military Jacket
1,100 m from the hypocenter Kako-machi
Donated by Kazukuni Kawamura
Isao Kawamura (then 29) was exposed to the atomic bombing at his building demolition worksite. Trapped under a collapsed building, he managed to escape by himself. Dragging his painful leg, Isao went to his unit based in the eastern part of Hiroshima to deliver the report. After he completed his duty, he went home where his wife Sugae met him in tears. He comforted her saying “I returned home safely, so don’t cry.” On the 14th, he developed a high fever, and his nosebleed had never stopped. Sugae, who was in her final month of pregnancy, desperately nursed her husband.
As labor began on the 20th, Sugae had to leave Isao. While she was giving birth to their child, Isao passed away without seeing the baby’s face.
資料性質 被爆資料

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