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被爆資料

識別コード 2399-0046
資料名 ジャムの蓋に使用していた油紙
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 小早川 源海(コバヤカワ ゲンカイ)、川口 洋子(カワグチ ヨウコ)
寄贈者(英語) KOBAYAKAWA Genkai、KAWAGUCHI Yoko
受入年月日 2018/7/20
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 268×243
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 小早川源平さんは、吉島羽衣町に菓子製造業の東邦商会を設立。ジャムを製造したり、砂糖やチョコレート、パン、菓子の材料を卸したり販売していた。
大きな鉄釜で炊き上げたジャムはブリキの一斗缶に入れ、水槽で冷ました後、蓋としてこの油紙をのせていた。
源平さんが1939年(昭和14年)に急性肺炎で亡くなると、社名を東邦ジャム製造株式会社と改め、妻のハルコさんが社長として後を引き継いだ。
1945年(昭和20年)8月6日、ジャム工場は被爆により全焼。ハルコさん(当時40歳)は畑として借りていた泉庭(萬象園)の一角で被爆し、全身大やけどを負った。知り合いの女性が、裸で池に出たり入ったりしていたハルコさんを見つけ、丹前を着せてくれた。
崇徳中学校3年生だった長男の隆光さんは、学徒動員で作業現場に行く途中に被爆し、顔や体に大やけどを負った。工場と同じ敷地内にあった家も類焼していたため、南大橋へ避難した。そこで母のハルコさんと再会。しかし、混乱の中で二人は離れてしまった。その後、隆光さんは捜しに来た伯父たちに見つけられ、学生服はボロボロ、大やけどを負った姿で、蒲刈に縁故疎開中だった弟や妹たちのもとへ戻った。
ハルコさんは金輪島に運ばれていた。そして、自ら切った髪の毛を同郷の女性に託し、8月10日に亡くなった。後日、子どもたちのもとに届けられた髪の毛は、ジリジリと焦げていた。
1968年(昭和43年)になって、原爆供養塔の名簿が公開となり、ハルコさんの名前が見つかった。遺骨代わりに家族に引き渡されたのは、当時と同じジリジリと焼けた髪の毛だった。
子どもたちは原爆で母と家を失った。
当時11歳だった次男の源海さんは、戦後、ジャム工場で使っていた鉄釜を引き取った。源海さんは亡くなるまで「これを励みにするんじゃ」とよく家族に話していたという。鉄釜は現在も源海さんの家族が自宅で保管している。
7歳だった三女の洋子さんは、高校生の頃になって初めて母を想い涙した。洋子さんにとって、ハルコさんが被爆した畑で「戦争が終わったら掘り返そうね」と一緒にお皿を埋めたのが母との最後の思い出になった。そこには赤やオレンジのカンナの花が咲いていた。そのため洋子さんは、今でもカンナの花を見るのも嫌だと言う。
ブロック別 吉島・舟入・観音地区
展示説明文 ジャムの蓋に使用していた油紙
寄贈/小早川源海・川口洋子
小早川ハルコさんは、夫の死後、ジャム製造会社を引き継ぎ社長となった。大きな鉄釜で炊き上げたジャムの蓋に、この油紙を使っていた。
原爆により工場は全焼。ハルコさんも全身に大やけどを負って8月10日に亡くなった。亡くなる前、ハルコさんが自ら切って、後日子どもたちのもとに届いた髪の毛は、ジリジリと焦げていた。
11歳だった次男の源海さんは家族も家も失った戦後を、これら僅かな遺品を励みに懸命に生きた。

寄贈者(ハルコさんの娘)のお話から
「しっかり者で、『女侍』のような母でした。甘えさせてくれるような人ではありませんでしたが、末っ子だった私は母のあとをどこでもついて行っていました。
まだ7歳だった私に母の死の実感はなく、一年、また一年と年を重ねて母の死を実感し、高校生の頃初めて泣きました。」
展示説明文(英語) Oil-paper used as lids for jam jars
Donated by KOBAYAKAWA Genkai and KAWAGUCHI Yoko
KOBAYAKAWA Haruko, after the death of her husband, inherited her husband’s jam manufacturing company and became the president. These pieces of oil paper were used as lids of jars for jam cooked in a large iron pot.
Her jam factory was burnt down due to the atomic bombing. Haruko sustained serious burns all over her body and passed away on August 10. Her hair, which she cut herself and sent to her children before she died, had been scorched to a frizzle.
Her second son Genkai was 11 years old at that time. Having lost both his family and house, he lived his life after the war making every effort, with these small articles as encouragement.

Excerpt from a talk of the donor (Haruko’s daughter)
“She was a mother of strong character, like a female samurai. She was never soft on her children, but I, her youngest child, followed at her heels anywhere she went.
I was only seven years old and could hardly realize my mother’s death. As every year passed, I gradually reached the realization that she had died and finally cried when I was a high school student.”
資料性質 戦前資料

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