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被爆資料

識別コード 2399-0045
資料名
資料名(英語) Chopsticks
寄贈者(カナ) 細川 浩史(ホソカワ コウジ )
寄贈者(英語) HOSOKAWA Koji
受入年月日 2018/2/5
寸法(幅×高さ×奥行)(mm)
寸法(その他) (箸入れ)153×40×5 (箸)150×10×5
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名) 土橋付近
爆心地からの距離(m) 800
数量 1
内容 森脇瑤子さん(当時13歳)は、県立広島第一高等女学校の一年生だった。土橋付近で建物疎開に動員されている時に被爆。背中に大やけどを負い、6日夜収容先の観音国民学校(現広島市立五日市観音小学校)で亡くなった。看病してくれた人の話では、瑤子さんは背中の火傷がひどく、うつ伏せに寝かされていたが、何度も立ち上がろうとしていたという。
この箸は、被爆から9日後の8月15日、寄贈者で兄の細川浩史さんと母親の雅枝さんが、瑤子さんが被爆した現場付近に行った際、細川さんが発見したもの。細川さんが「このあたりか」と思いながら焼け跡を歩いていると、見覚えのある箸入れが目に入り「まさか」と思いながら手に取った。それは瑤子さんが手作りしたものと思われる箸入れで、入っていた箸も宮島製で見覚えのある箸だった。すぐそばでやはり見覚えのあるアルミ製の弁当箱も発見。弁当箱には名前が書かれているわけではなかったが、見覚えがあるので、瑤子さんのものとして持ち帰った。弁当箱の中身はその時すでになかった。

【寄贈者の言葉より】
「瑤子の遺体が宮島の自宅に帰ってきたとき、モンペは焼け落ち、ほとんど何も身につけていませんでしたが、誰かが浴衣を1枚かぶせてくれていました。顔だけはきれいだったことがせめてもの救いでした。最愛の妹を亡くしたことは僕の生涯で最大の悲しみです。肉親が何がなんだかわからないまま突然殺されたことに、寂寥感や寂寞感、やりきれない気持ちをずっと持ち続けてきました。
この遺品は戦争の結末だと思います。見る人は自分のこととして受け取ってほしい。瑤子も訴えていると思います。」
ブロック別 十日市・中広地区
展示説明文 箸、弁当箱、夏服、防空頭巾、救急袋
寄贈 細川浩史

森脇瑤子さん
13歳 広島県立第一高等女学校1年生
土橋付近の建物疎開作業現場で被爆。
背中に大やけどを負う。
6日夜、収容先の観音国民学校で死亡。

瑤子さんの父は音楽の先生だった。
瑤子さんの夢も父と同じ音楽の道にすすむことだった。

兄・浩史さんのお話しより
瑤子の遺体はリヤカーに乗せられて、母の号泣とともに帰って来ました。
モンペは焼け落ち、ほとんど何も身につけていませんでしたが、誰かが浴衣をかぶせてくれていました。
顔だけはきれいだったことがせめてもの救いでした。

弁当箱と箸は、兄が作業現場付近で見つけた。
箸は宮島製。千代紙の箸入れは瑤子さんの手作り。

夏服、防空頭巾、救急袋は後日学校が届けてくれた。
瑤子さんはセーラー服に憧れていたが、物資が乏しく作れなかった。
この夏服は母の着物をほどいたもの。仕立て方は学校で習った。
展示説明文(英語) Chopsticks, Lunch Box, Summer Uniform, Air-Raid Hood and a First-Aid Kit
Donated by Koji Hosokawa

Yoko Moriwaki (13, A first-year student of First Hiroshima Prefectural Girls High School)
Yoko was exposed to the bombing when she was at her building demolition worksite around Dohashi. She suffered heavy burns on her back. On the night of the 6th, she died at Kan-on Elementary School, where she had been taken.

Yoko’s father was a music teacher.
Her dream was to pursue a career in music like her father.

Testimony by Her Elder Brother Koji
Accompanied by our mother, who was wailing, Yoko’s body was taken home in a cart.
Since her workpants were burned and tattered, she had almost nothing to wear, but someone put a yukata on her body.
Her face was not damaged, which was the only consolation given to us.

Yoko’s elder brother found this lunch box and these chopsticks at her worksite.
The chopsticks were made in Miyajima. Yoko made the chopsticks case, using paper with colored patterns.

Her summer uniform and air-raid hood, and the first-aid kit, were delivered later by a school staff.
Yoko wanted to wear a sailor-style uniform, but she couldn’t due to the material shortage.
This summer uniform was remade from her mother’s kimono. She had learned at school how to make the uniform.
資料性質 被爆資料

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