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被爆資料

識別コード 2301-0022
資料名 弁当箱
資料名(英語) Lunch box
寄贈者(カナ) 加納 恒治(カノウ ツネハル)
寄贈者(英語) Tsuneharu KANO
受入年月日 2011/08/24
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 173×110×39
寸法(その他)
被爆地(旧町名) 中島新町
被爆地(現町名) 中島町
爆心地からの距離(m) 700
数量 1
内容 県立広島工業学校機械科の1年生だった加納幸治さん(当時12歳)は、爆心地から約700メートルの中島新町(現在の中島町)で建物疎開作業中に被爆した。広島市に新型爆弾が落ちたと聞いた父の武さんは翌7日、自宅の倉橋町から船に乗り、幸治さんを捜しにいったが、何度捜しに行っても幸治さんを見つけることはできなかった。しばらくして、この弁当箱とゲートルを遺品として受け取った。お墓に入れたゲートルは朽ちてしまったが、弁当箱は66年間、仏壇に祀り大事にしてきた。蓋には幸治さんの名前が書いてある。武さんは亡くなるまで幸治さんのことを語らず、兄の恒治さんは3日に祖父母宅に帰省し、なんとなく戻りたくなさそうだった幸治さんに、つい厳しく帰るように促したことを、今でも後悔し続けている。
ブロック別 平和記念公園・周辺地区
展示説明文 弟の形見の弁当箱
寄贈/加納 恒治氏
爆心地から700m 中島新町(現在の中島町)
寄贈者の弟・県立広島工業学校機械科1年生の加納幸治さん(当時12歳)は、建物疎開作業中に被爆しました。翌7日から、父の武さんは倉橋町の自宅から船に乗り、幸治さんを捜しに行きましたが、何度捜しに行っても幸治さんを見つけることはできず、現在も行方不明のままです。被爆後ずいぶん経って、ゲートルと弁当箱が武さんのもとに届けられました。ゲートルはお墓に入れて朽ちてしまいましたが、弁当箱は66年間仏壇に供えて大事にしてきました。
ふたには幸治さんの名前が書いてあります。
展示説明文(英語) Younger brother’s lunchbox keepsake
Donated by Tsuneharu Kano
700m from the hypocenter Nakajima-shin-machi (now, Nakajima-cho)
Koji Kano (then, 12), the donor's younger brother, was a first-year mechanical engineering student at Hiroshima Prefectural Industrial School. He was exposed to the bomb while helping building demolition work. His father, Takeshi, set out the next day by boat from their home in Kurahashi Town and went to look for Koji. No matter how much his father searched, he couldn't find Koji anywhere and to this day he remains missing. A considerable amount of time passed before Takeshi received Koji's gaiters and lunchbox. The gaiters were placed at Koji's grave and have since rotted, but for 66 years this lunchbox had been carefully preserved in the family Buddhist altar. Koji's name is written on the lid.
資料性質 被爆資料

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