識別コード | 2101-0902 |
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資料名 | 抹茶茶碗 |
資料名(英語) | Maccha Tea Cup |
寄贈者(カナ) | 中野 節子(ナカノ セツコ) |
寄贈者(英語) | NAKANO Setsuko |
受入年月日 | 2017/8/8 |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | |
寸法(その他) | 110φ×70 |
被爆地(旧町名) | |
被爆地(現町名) | |
爆心地からの距離(m) | |
数量 | 1 |
内容 | 寄贈者の父である松田勝司(まつだ かつし)さん(当時28歳)が焼け跡で収集したと思われる抹茶茶碗。いつ、どこで収集したものかは不明。茶碗の底には、焼き物のかけらが2つ、溶けた釉薬で付着して固まっている。茶碗の形自体も熱のためか歪んでいる。 被爆当時、中島国民学校の教員だった勝司さんは、集団疎開の引率として児童たちと一緒に双三郡吉舎町(現三次市)に疎開していた。勝司さんは、原爆が投下された翌日8月7日、疎開している児童たちの父兄を探すためいったん広島に戻り、焼け跡となった学校区内を歩き回った。 寄贈者が後から気づいたことだが、勝司さんが毎年8月6日前後の時期、家族旅行で県外に出かけることが多かったのは、原爆のことを思い出したくなかったためだった。 勝司さんは定年退職から間もなく、趣味だった旅行に行く前に受けた健康診断でがんが見つかり、翌1979年(昭和54年)に亡くなった。 寄贈者の言葉より 「私が子どもだった昭和30年頃、広島の街にはまだ孤児がいました。ある時、家族でレストランに行くと、孤児たちが物を売りにやってきました。店員は店から孤児を追い出そうとしましたが、父はその孤児たちから品物を買ってあげました。父の赴任先だった中島国民学校は爆心地に近いため、父の受け持ちの子の多くが孤児になったのではないかと思います。父には孤児と自分の教え子たちが重なって見えたのではないでしょうか。父が父兄の安否を子どもたちにどう伝えたのか、それを想像すると心がつまる思いがします。」 |
ブロック別 | |
展示説明文 | 抹茶茶碗 寄贈 中野節子 中島国民学校の教員だった松田勝司さん(28)は、7日、集団疎開をしていた児童の父兄を捜しに入市した。 市内にいた妻は原爆により亡くなった。 |
展示説明文(英語) | Maccha Tea Cup Donated by anonymous Katsushi Matsuda (28), a teacher of Nakajima Elementary School in those days, entered Hiroshima City on the 7th to search for families of his students who had been evacuated to the countryside in a group. His wife had been in Hiroshima and killed by the atomic bombing. |
資料性質 | 被爆資料 |