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被爆資料

識別コード 2101-0886
資料名 自宅焼け跡から掘り出した西洋皿
資料名(英語) Western-style Plate Dug Out from the Remains of a Burned House
寄贈者(カナ) 木下 三郎(キノシタ サブロウ)
寄贈者(英語) KINOSHITA Saburo
受入年月日 2015/08/19
寸法(幅×高さ×奥行)(mm)
寸法(その他) 250φ×31
被爆地(旧町名) 楠木町
被爆地(現町名) 楠木町
爆心地からの距離(m) 1800
数量 1
内容 木下貫一さん(当時45歳)は、父・猪三郎さんの起こした石鹸製造業を引き継ぎ、楠木町で木下石鹸工場を営んでいたが、戦争で従業員も減ったため、工場を閉め、父母と、三男の三郎さんと、沼田へ疎開していた。妻の芳枝さん(当時34歳)と、次男で広島市立中学校2年生だった道夫さんは、楠木町の自宅に残っていた。8月6日、疎開先の沼田で爆音と爆風ときのこ雲を見た貫一さんは、市内に残っていた妻の芳枝さんと、次男の道夫さんの身を案じ、広島へ向かった。市内に近づくと、晴天だったのが、急に雷と光と大雨になった。自宅があった場所は、家も工場も跡形もなく灰になっており、土蔵が崩れ落ちていた。芳枝さんと道夫さんの姿もなく、貫一さんは避難先に指定されていた学校へ向かった。2人を捜し校門を出たり入ったりしていた時、一人の女性が「お父さん」と声をかけてきた。妻の芳枝さんだった。貫一さんは息がつまり、しばし、ただお互いの顔を見るのみだった。芳枝さんは、自宅の庭で被爆しており、顔は真っ黒で、油土や麦わらが耳に入り、血は流れ、手足は焼けただれ、着衣はぼろぼろになっていた。貫一さんは早速疎開先へ芳枝さんを連れて帰り、医者に診てもらったが、薬は品切れで、油をつけるしかなく、芳枝さんにはうじがわいた。背中まで大やけどしていた芳枝さんは、横にもなれず、その後1~2年は座ったままの状態で過ごすしかなかった。芳枝さんによると、道夫さんは、学徒動員で小網町方面に家屋疎開に行って帰ってこないということであった。貫一さんは、父の猪三郎さんと、何度も繰り返し捜しに行き、突然帰ることもあるかと望み続けていたが、道夫さんは未だに帰らないままである。この西洋皿は、貫一さんが、土蔵の焼け跡を掘り返して見つけたもの。葉の様な影が残っている。貫一さんはこの皿を仏壇の横に置いて、長らく大切に保管していた。
ブロック別 三篠・祇園地区
展示説明文 自宅焼け跡から掘り出した西洋皿
寄贈/木下三郎氏
爆心地から約1,800m 楠木町
木下貫一さん(当時45歳)は、楠木町で営んでいた石鹸工場を閉め、父母と、三男の三郎さんと、沼田へ疎開していました。楠木町の自宅には、妻の芳枝さん(当時34歳)と、次男で広島市立中学校2年生だった道夫さんが残っていました。疎開先で爆音と爆風ときのこ雲を見た貫一さんは、妻と次男の身を案じ、市内へ向かいました。自宅があった場所は跡形もなく灰になって、二人の姿もなく、貫一さんは避難先に指定されていた学校へ向かいました。二人を捜し、校門を出たり入ったりしていた時、一人の女性が「お父さん」と声をかけてきました。妻の芳枝さんでした。貫一さんは息がつまり、しばし、ただお互いの顔を見るのみでした。芳枝さんは、顔は真っ黒で、油土や麦わらが耳に入り、血は流れ、手足は焼けただれ、着衣はぼろぼろになっていました。貫一さんは疎開先へ芳枝さんを連れて帰りましたが、薬はなく、油をつけるしかありませんでした。背中まで大やけどしていた芳枝さんは、横にもなれず、その後1~2年は座ったままの状態で過ごすしかありませんでした。芳枝さんによると、道夫さんは、学徒動員で小網町方面に建物疎開に行って帰ってこないということでした。貫一さんは、何度も何度も捜しに行き、突然帰ることもあるかと望み続けていましたが、道夫さんは未だに帰りません。
この西洋皿は、貫一さんが、土蔵の焼け跡を掘り返して見つけたもの。貫一さんはこの皿を仏壇の横に置いて、長らく大切に保管していました。
展示説明文(英語) Western-style Plate Dug Out from the Remains of a Burned House
Donated by Saburo Kinoshita
Approx. 1,800m from the hypocenter Kusunoki-cho
Closing a soap factory that he ran in Kusunoki-cho, Mr. Kanichi Kinoshita (then, 45) was evacuated to Numata, together with his parents and his third son Saburo. In his home in Kusunoki-cho remained his wife Yoshie (then, 34) and his second-son Michio, who was a second-year student of Hiroshima Municipal Junior High School then. At his place of evacuation, Kanichi heard an explosive sound, felt a bomb blast, and saw a mushroom-shaped cloud. Worrying about his wife and second son, he headed to the city, where he found that his house had been totally reduced to ashes. Not being able to find his wife nor second son, Kanichi went to the school, which had been designated as an emergency evacuation place. Looking for the two, he went in and out of the school repeatedly through the gate, when a woman spoke to him. It was his wife Yoshie. Kanichi caught his breath. All they could do was look at each other for a while. Yoshie’s face turned black as charcoal, with oil clay and straw in her ears. She was bleeding with her arms and legs severely burned, her clothing reduced to tatters. Kanichi took Yoshie to his evacuation place, but there was no medicine available. All he could do was apply oil to her. Since Yoshie had severe burns on her back, she could not lie down, forcing her to remain seated for one or two years. According to Yoshie, Michio did not come back from the building demolition site in Koami-cho. Searching for Michio many times, Kanichi continued to hope that he might come back suddenly, but he did not return.
Kanichi found this Western-style plate while digging out the remains of his burned storehouse. Storing this item next to his family Buddhist altar, he preserved it with considerable care for a long time.
資料性質 被爆資料

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