識別コード | 1216-0023 |
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資料名 | 「天神町義勇会会長」の木札 |
資料名(英語) | |
寄贈者(カナ) | 五島 三津子(ゴトウ ミツコ) |
寄贈者(英語) | GOTO Mitsuko |
受入年月日 | 2021/5/14 |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | 39×168×8 |
寸法(その他) | |
被爆地(旧町名) | |
被爆地(現町名) | |
爆心地からの距離(m) | |
数量 | 1 |
内容 | 天神町に住んでいた山﨑益太郎さん(当時54歳)の名前が書かれた木札。 益太郎さんは小町の中国配電本店2階 (爆心地から680m) の一室で被爆した。頭に大きな切り傷を負いながらも、雨樋を伝って飛び降り、脱出。電車通りを南へ走り、市庁舎を経て、文理大の広場まで逃げた。 あちらこちらから、傷ついた人や、血みどろになって瀕死の人を背や肩にした人が逃れて来て、地獄のようだった。昼前に火勢がやや衰えてきたため、益太郎さんは一度会社まで引き返した後、2人の娘の安否を確かめに向かった。 益太郎さんの次女・仁子さん(当時13歳)は、市立第一高等女学校2年で、学徒動員で建物疎開跡の整理に出かけていた。益太郎さんはその方へ足を向けた。徒歩で川を渡ると、河原一面に女学生が倒れ、傷ついていた。益太郎さんが「仁子、仁子はおらぬか」と大声で名前を呼ぶと「お父さん、お父さん」とかすかに応える声がした。急いで駆け寄ると、仁子さんはそれが我が子だと見分けられない姿になっていた。益太郎さんが「本当に、仁子か?」と尋ねると、仁子さんは「お父さんはどうして私がわからないの」と聞き返したという。 益太郎さんの手記より: (中略)夢中で抱き上げる。シュミーズも、スカートも焼け、身体は茹で蛸のように赫黒色になつている。僅かに腰のあたりに手拭の切れ端と名札と腰下げが残っている。脣は黄色くなつていた。「おとうさん、咽喉が痛い」早速に掌で川の水をすくつて飲ませる。 私の家は勿論焼け落ちているので、牛田町の親戚へ行くこととし、そのまま背負つて川を渡ることにする。牛田の親戚には長女を預けていたのでその安否を確かめる目的もあつた。子供を背負つて水の中へ入つて行つたものの、水が腰のあたりまであり、私自身も相当弱つているとみえて、ともすると倒れそうになる。(中略) 西練兵場では多勢の人が休んでいる。会社の人も四、五人見当つた。その中に竹本君もいた。ここで暫く休憩した後再び子供を背負つて立つ。急に重くなつたので、竹本君に少し上げてもらう。すると竹本君がちよつとおろしてみなさいというので、何か異状を予感して思わず、ハツとする。その時、吾子は既にこときれていたのである。何とも譬えようのない思いであつた。 それから骸を肩にして、八丁堀から常盤橋を経て、牛田町二重堤防の奥まで行く。途中百メートル歩いて五分、百五十メートル歩いて十分と屡々休息する。夢で遠い旅をしているような感じであつた。 (山崎益太郎「終戦前後の思い出」、中國配電株式会社『中國配電株式会社十年史』発行、昭和28年12月20日) 牛田にいた長女は無事だった。8日、益太郎さんと長女は仁子さんを荼毘に付した。2人は翌日から自宅の焼け跡や親戚を捜して、連日市中を歩き回った。天神町で同居していた益太郎さんの弟夫婦は即死で、後日白骨を見つけた。身近な親戚だけでも十数人が一瞬のうちに亡くなっていた。 |
ブロック別 | |
展示説明文 | |
展示説明文(英語) | |
資料性質 | 戦中資料 |