識別コード | 1205-0021 |
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資料名 | 花びん |
資料名(英語) | Flower vase |
寄贈者(カナ) | 天野 文夫(アマノ フミオ) |
寄贈者(英語) | Fumio Amano |
受入年月日 | 1969/07/23 |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | |
寸法(その他) | 155φ×250 |
被爆地(旧町名) | 西魚屋町 |
被爆地(現町名) | 袋町 |
爆心地からの距離(m) | 300 |
数量 | 1 |
内容 | 広島市立舟入病院長であり、結核療養所畑賀病院長でもあった天野勲(あまの いさお)さん(当時52歳)は、原爆が投下される前日、広島県東部に診療に行く予定であったが、列車に乗り遅れてしまった。当時一家は、勲さんの職業のため、疎開することが許されず、せめてもと、市内中心部にあった自宅から、市内南部に居を移していた。しかし、列車に乗り損ねた勲さんは、その日に限って爆心地に近い本邸に泊まり、食事を運んできた妻・いよさん(当時42歳)、夏休みで帰省していた長男・和道(かずみち)さん(当時19歳)とともに被爆した。親子3人で、朝食をとった後であったと思われる。勲さんは、炊事場から土蔵に行く途中の通路で、いよさんは、台所の食卓の前で、和道さんは診察室のソファーで亡くなっていた。県立広島第二中学校4年生だった三男・忠信(ただのぶ)さん(当時15歳)は、学徒動員先である中国財務局で被爆、外傷はなかったにもかかわらず、原爆症の症状を発症、8月23日に亡くなった。原爆により、6人家族の内、一番幼い長女・良子(よしこ)さん(当時13歳)と四男・達三(たつぞう)さん(当時10歳)だけが残された。 この花びんは、土蔵の前に埋めてあったもので、勲さんの弟・顕二(けんじ)さんが掘り起こし、保存していたもの。 |
ブロック別 | 紙屋町・本通地区 |
展示説明文 | |
展示説明文(英語) | |
資料性質 | 被爆資料 |