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被爆資料

識別コード 1199-0011
資料名 蚊帳
資料名(英語) Mosquito net
寄贈者(カナ) 古池 正臣(コイケ マサミ)、谷本 太(タニモト フトシ)
寄贈者(英語) Masami KOIKE、Futoshi TANIMOTO
受入年月日 2012/11/10
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 1950×1800×2250
寸法(その他)
被爆地(旧町名) 千田町二丁目
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 従兄弟だった谷本太さん(当時22歳)と、古池正臣さん(当時15歳)は、古池さんが広島県立第二中学校へ入学したことを機に、千田町二丁目の下宿先の同じ部屋で一緒に暮らし始めた。古池さんが3年生になった頃、学徒動員されていた三菱重工の工場が宮内村(現在の廿日市市)へ疎開したため、古池さんも佐伯町(現在の廿日市市)の自宅から工場へ通うことになり、一人下宿先で生活していた谷本さんは、8月6日の朝、蚊帳の中でくつろいでいた時に被爆した。剥がれた壁の下敷きになり、頭から血まみれになりながらも、どうにか這い出した谷本さんは、常備していた救急袋の中に、古池さんから借りていたこの蚊帳を詰めて脱出。同宿の学生たちと避難した広島文理科大学のグラウンドは負傷者であふれ、その夜は、グラウンドのプールの周りの木にこの蚊帳をつって、負傷者や女性に声をかけ中に入れ、谷本さんたちは寝ずの番で夜を明かした。翌日、大竹市の自宅に戻る途中の廿日市で、消防隊として救援に来た伯父と出会った谷本さんは、まず古池さん宅まで連れて帰ってもらい、蚊帳を返却した。夜が明けて、自宅に戻った谷本さんは、9月くらいから原因不明の高熱に襲われ、口の中が膿み、切れて血がにじみ、なんとか重湯を流しこむような状態が3カ月も続いたが、その内に自然と回復して、元気を取り戻した。蚊帳はその後一度も使われることはなく、古池さんが倉庫で保管していた。
ブロック別 国泰寺・千田地区
展示説明文 蚊帳寄贈/古池正臣氏・谷本太氏
爆心地から約2,100m 千田町二丁目
いとこ同士の谷本太さん(当時22歳)と古池正臣さん(当時15歳)は、古池さんの広島県立第二中学校への入学を機に一緒に下宿生活を始め、二人はこの蚊帳の中で寝起きを共にしていました。1945年(昭和20年)の夏、古池さんは自宅に戻り、休日だった谷本さんは、一人で自室の蚊帳の中でくつろいでいる時に被爆しました。気付いた時には倒れた壁の下敷きで、血まみれになりながらもどうにか這い出し、常備していた救急袋の中に古池さんから借りていたこの蚊帳を詰めて脱出しました。同宿の学生たちと避難した広島文理科大学のグラウンドは負傷者であふれ、その夜はこの蚊帳をつって負傷者や女性に声をかけて中に入れ、谷本さんたちは寝ずの番で夜を明かしました。途中、古池さん宅へ立ち寄り、8日朝、大竹市の自宅に戻った谷本さんは、9月頃から原因不明の高熱に襲われ、口の中が膿み、なんとか重湯を流し込むような状態が3カ月も続きましたが、どうにか回復しました。
展示説明文(英語) Mosquito net
Donated by Masami Koike and Futoshi Tanimoto
Approx. 2,100m from the hypocenter Senda-machi 2-chome
With his admission to Second Hiroshima Prefectural Junior High School, Masami Koike (then, 15) began to share a room with his cousin Futoshi Tanimoto (then, 22) at a boarding house. At night, they shared this mosquito net when they slept. In the summer of 1945, Masami had returned to his parent's home and the vacationing Futoshi was under this net lying down when he experienced the atomic bombing. When he regained consciousness, he was pinned under a collapsed wall and, covered in blood, began to crawl out. He stuffed this net into the emergency bag that Masami had prepared and escaped. He and the other students who were staying at the same boarding house took refuge in the athletic field at Hiroshima University of Literature and Science, which was teeming with the injured. That night, he set up this mosquito net and invited women and the injured inside, where they all kept vigil through the night. On the way home, he stopped by the Koike residence before arriving at his house in Otake City on the morning of August 8. From September, he was overcome by an inexplicable fever and his mouth began to fester. For the next three months, he was only able to drink a thin rice gruel, but somehow he managed to recover.
資料性質 被爆資料

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