内容 |
中澤勉さん(当時21歳)は、二部隊の建物の2階で被爆した。右側に窓ガラスがあったため、背中と右半身にガラスが突き刺さり、意識を失った。気がついた時は、建物の一階に埋もれており、助けに来た人に掘り起こしてもらった時には、火がそこまで迫っていた。その後勉さんは、母が疎開していた牛田に帰ろうと思ったが、ケガのため歩くことができず、這って縮景園まで避難し、そこで一夜を明かした。うとうとして目が覚めると、周りは全て焼けており、勉さんのいたところだけが焼け残っていた。それから3日ぐらいかかって、ようやく牛田に帰った。牛田に帰った勉さんを、母のリョウさんが大八車に乗せて、病院に連れて行った。ガラスが突き刺さった背中と右半身は血だらけで、顔や頸動脈にも大きなきずを負い、右目は血のりで開かなかった。勉さんの体にわいたうじはリョウさんが取り、看病をした。戦後、1958年~1960年(昭和33年~35年)になって、ガラスが入っていたところがひどく痛みはじめた勉さんは、病院で手術を受けた。しかし何度か手術を繰り返したが、全てを取り除くことはできず、晩年になっても痛みがあると「ガラスのせいではないか」と勉さんは不安を抱えていたという。 |