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被爆資料

識別コード 1101-0035
資料名 屏風
資料名(英語) Folding screen
寄贈者(カナ) 為野 琢也(タメノ タクヤ)
寄贈者(英語) TAMENO Takuya
受入年月日 2014/7/14
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 1725×1843
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 広島女子高等師範学校附属山中高等女学校1年生だった為野忠子さん(当時13歳)は、雑魚場町(爆心地から1200m)で建物疎開作業中、瓦の積み重ねをリレーでしている時に被爆した。気を失いしばらくして目をあけると、忠子さんの体は焼けただれ、血だるまになっていた。忠子さんは比治山を目標に鶴見橋を渡り、さらに東大橋へ走ると、東大橋のたもとで海田運輸部のトラックを見つけた。必死で頼みこみ友達5人と一緒にトラックに乗せてもらった忠子さんは、海田にあった実家の為野病院へ帰った。玄関で両親に迎えられた忠子さんは、服はズタズタに破れ、顔は焼けただれ、髪はお釈迦様のごとく、血だるまの姿に変わっていた。忠子さんと友達5人は、座敷に枕を並べて休み、手当てを受けたが、みな熱を出し、うわごとを言い、苦しみもがきながら、次から次へと亡くなっていき、忠子さんも8月8日正午に母のカズマさんに抱きしめられながら亡くなった。
この屏風は、忠子さんが昭和16年頃~昭和19年頃に描いた絵や習字が貼られたもので、跡取り娘を亡くした忠子さんの両親が戦後につくり、保管していた。
ブロック別
展示説明文 屏風
寄贈/為野琢也氏
山中高等女学校1年生だった為野忠子さん(当時13歳)は、雑魚場町建物疎開の作業中、被爆しました。
友達と一緒に、海田の自宅の為野病院へ帰った忠子さんは、服はズタズタに破れ、顔は焼けただれ、血だるまの姿に変わっていました。忠子さんたちは、座敷に枕を並べて手当てを受けましたが、みな熱を出し、うわごとを言い、苦しみ、もがきながら、次から次へと亡くなっていきました。忠子さんも8月8日正午、母のカズマさんに抱きしめられながら亡くなりました。
この屏風は、戦後に忠子さんの両親が仕立てたものです。
貼られている色とりどりの絵や習字は、忠子さんが昭和16年頃~昭和19年頃にかいたものです。
展示説明文(英語) Folding screen
Donated by Takuya Tameno
Tadako Tameno (then, 13), a first-year student at Yamanaka Girls High School, was exposed to the atomic bomb at her building demolition site in Zakoba-cho.
She went back home in Kaita with her friends, where her family was operating a hospital. She was completely covered with blood with her clothes torn into strips and her face hideously burnt. Tadako and her friends were treated for their wounds and injuries, but all of them developed fevers, became delirious, suffered severe pain. Eventually, they died in agony one after another. Tadako died in the arms of her mother Kazuma at noon of August 8.
These folding screens were made by Tadako's parents after the war. The calligraphy sheets and multi-colored drawings attached to the screens were created by Tadako between 1941 and 1944.
Disaster certificate
資料性質 被爆関連資料

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