識別コード | 9202-0828 |
---|---|
資料名 | はがき |
資料名(英語) | |
寄贈者(カナ) | 飯田 國彦(イイダ クニヒコ) |
寄贈者(英語) | IIDA Kunihiko |
受入年月日 | 2016/1/5 |
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) | 90×140 |
寸法(その他) | |
被爆地(旧町名) | |
被爆地(現町名) | |
爆心地からの距離(m) | |
数量 | 1 |
内容 | 寄贈者の父・飯田武さん(当時31歳)が伯父の新中壽三さんに宛てたもの。このはがきを書いた翌日、武さんは召集された。 それから間もない1945年(昭和20年)6月、武さんは妻と二人の子どもを遺して沖縄で亡くなった。 昭和20年8月5日、武さんの妻・稔子さん(当時25歳)は田舎に引っ越す挨拶のため、長女の眞基子さん(当時4歳)と長男の國彦さん(当時3歳)と一緒に水主町の実家に泊まっていた。8月6日、原爆の投下により爆心地から約1㎞弱の距離にあった家は倒壊。家にいた7人は、皆どうにか脱出し、裸足で必死に明治橋西詰までたどり着いたが、そこから先へは瓦礫や炎で進めなくなった。そこで、稔子さんと2人の子どもたちは暁部隊の舟に救助され、宮島で数日過ごしたのち、山県郡の親戚宅へ移り、親戚の人たちの看病を受けた。しかし、原爆症によって髪は抜け、唇をはじめ体は青黒く変色し、発熱、下血、鼻血と症状は悪化し、9月4日、5日に稔子さんと眞基子さんは相次いで亡くなった。國彦さんも同じような状態で寝たきりだったが、どうにか一命を取り留めた。 |
ブロック別 | |
展示説明文 | |
展示説明文(英語) | |
資料性質 | 戦中資料 |