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トップページ原爆の絵地図 "国泰寺・千田地区"

原爆の絵

地図 "国泰寺・千田地区" で 395 件検索されました。

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No 画像 コード 絵の内容 作者名 情景年月日 情景場所
301 SG-0302 何百人も火傷を負った人達の行列を目にした御幸橋。一列に並んで倒れていた欄干石 松島 圭次郎(マツシマ ケイジロウ) 御幸橋付近
302 SG-0327 「宇品に敵の潜水艦が来ている!山の方に逃げろ!」と叫けぶ消防隊員 尾崎 稔(オザキ ミノル) 1945/8/6 広島県立工業学校正門前
303 SG-0328 救援バスが来た。前には東南アジアの留学生が乗っていた 尾崎 稔(オザキ ミノル) 1945/8/6 広島工業専門学校
304 SG-0330 私の被爆状況 尾崎 稔(オザキ ミノル) 1945/8/6 南大橋東詰付近
305 SG-0335 山中高等女学校校庭の竹やぶの中で、数百人もの避難者が、絶叫していた 藤岡 久之(フジオカ ヒサユキ) 1945/8/6 広島女子高等師範学校附属山中高等女学校
306 SG-0336 大手町国民学校校庭。朝礼中に被爆し、焼死した生徒たち 藤岡 久之(フジオカ ヒサユキ) 1945/8/7 大手町国民学校
307 SG-0337 大手町国民学校校庭。朝礼中に被爆し、焼死した生徒たちに手を合わせる 藤岡 久之(フジオカ ヒサユキ) 1945/8/7 大手町国民学校
308 SG-0338 広島市役所付近での遺体回収 藤岡 久之(フジオカ ヒサユキ) 1945/8/10 広島市役所付近
309 SG-0339 被爆から5日後、男性の遺体にウジ虫がわいている 藤岡 久之(フジオカ ヒサユキ) 1945/8/10頃 鷹野橋交差点付近
310 SG-0417 明治橋の近くで負傷した母と兄嫁に再会。頬が割れた兄嫁にタオルを渡す 三山 甲子(ミヤマ カツコ) 1945/8/6
311 SG-0418 全身火傷の兄に油を塗る 三山 甲子(ミヤマ カツコ) 1945/8/6 南大橋付近
312 SG-0422 御幸橋から市中心街を眺める。「あれが福屋、中国新聞あたりか?」 廃虚と化した街は、まだあちこちが火災に包まれていた 五島 弘行(ゴトウ ヒロユキ) 1945/8/7 御幸橋
313 SG-0423 鷹野橋付近。水を求める人々。水を求められても、自身も水を持っておらず、どうすることもできなかった 五島 弘行(ゴトウ ヒロユキ) 1945/8/7 鷹野橋
314 SG-0424 鷹野橋付近。トラックに遺体を乗せていく暁部隊の兵士 五島 弘行(ゴトウ ヒロユキ) 1945/8/7 鷹野橋
315 SG-0425 鷹野橋、臨時救護所。「大竹応援隊」「廿日市応援隊」などの腕章もみられる。おむすびなどを手渡していたが、ほとんどの負傷者は喉を通らない様子だった 五島 弘行(ゴトウ ヒロユキ) 1945/8/7 鷹野橋
316 SG-0426 明治橋近くの階段で亡くなっていた子ども。どうすることもできず、ただ手を合わせることしかできなかった 五島 弘行(ゴトウ ヒロユキ) 1945/8/7 明治橋付近
317 SG-0427 グラマン(米軍戦闘機)飛来と太陽光発火 尾崎 稔(オザキ ミノル) 1945/8/6 南大橋東詰、魚市場
318 SG-0434 タカノ橋方面の白煙の中から大勢の負傷者が押し寄せて来た。胸の名札で同級生と出会うことが出来た。 尾崎 稔(オザキ ミノル) 1945/8/6
319 SG-0455 広島赤十字病院入り口付近。傷ついた人たちが治療を受けるために待っていた。その中に、お腹に車掌カバンのようなものを身に着けた一人の女性が寝かされていた。自分たちが広島赤十字病院を出たときには、その女性はもういなかった。 新田 臺吉(ニッタ ダイキチ) 1945/8/7 広島赤十字病院入り口付近
320 SG-0459 市役所前の集合場所で見張りの生徒と話し、学校へ向かう。 尾崎 稔(オザキ ミノル) 1945/8/6 広島市役所前

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