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トップページ原爆の絵地図 "己斐・草津地区"

原爆の絵

地図 "己斐・草津地区" で 111 件検索されました。

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検索結果の表示件数

No 画像 コード 絵の内容 作者名 情景年月日 情景場所
21 SG-0009-7 被爆体験を描いたスケッチブック(7/11) 木村 太矩次(キムラ タクジ) 1945/8/6 己斐の山
22 NG431-01 廊下に山のように積まれた死体。校庭の木の近くに横たわっている人に近づくとピクッと動いた。 朝信 澄子(アサノブ スミコ) 1945/8/10 己斐国民学校
23 NG426-05 「先生、足を切ってください」と頼む姉妹がいた。ムシロをはぐって見ると2人とも焼けただれていた。 宮本 鎤(ミヤモト アキラ) 1945/8/9 己斐国民学校校舎内
24 NG426-04 木にすがってすわり親にウジをとってもらっていた。 宮本 鎤(ミヤモト アキラ) 1945/8/9 己斐国民学校
25 NG422 校舎の中は負傷者であふれ治療待ちの行列が延々と続いた。半死半生の人々が横たわり足の踏み場もなかった。 杉﨑 友昭(スギサキ トモアキ) 1945/8/6 己斐国民学校
26 NG416 バラバラと大粒の雨が降りだした。雨は真っ黒な砂まじりで上着や包帯を黒く汚した。 中村 雄子(ナカムラ ユウコ) 1945/8/6 己斐
27 NG412-01 原爆がさく烈する瞬間を見る。マグネシウムのような光が大きくなり2秒半後工場全棟が倒壊した。 多田 好一(タダ ヨシカズ) 1945/8/6 三菱製作所己斐分工場
28 NG365-02 己斐国民学校は負傷者でいっぱいであった。人々の姿、うめき声は今も忘れることができない。 桃井 完二(モモイ カンジ) 1945/8/7 己斐国民学校裁縫室
29 NG365-01 少年に「おかあちゃんの所へ連れて行って」と頼まれる。頭の傷からは血があふれ骨が見えていた。 桃井 完二(モモイ カンジ) 1945/8/7 己斐国民学校校庭
30 NG354-04 己斐方面へ電車の鉄橋を渡って避難する子供やお年寄りなどの被災者。 堀本 春野(ホリモト ハルノ) 1945/8/6 己斐町電車専用橋(と思われる)
31 NG279-05 多くの負傷者がムシロを敷いた広場に寝かされていた。私もそこで休んだが生きた心地がしなかった。 山本 八重(ヤマモト ヤエ) 1945/8/6 己斐
32 NG190-02 大やけどの女性をローソクの明かりの中で家族みなで看病する。 佐々木 澄江(ササキ スミエ) 1945/8/6 己斐国民学校付近
33 NG134-15 己斐国民学校の授業再開。うれしかった。しかし運動場の焼き場跡にはたくさんの人骨がいつまでも見られた。 名柄 堯(ナガラ タカシ) 1945/9/18 己斐国民学校
34 NG134-14 学校再開の知らせがあるが、寝たきりだったので筋肉が萎縮してしまい歩けない。懸命にリハビリを続ける。 名柄 堯(ナガラ タカシ) 1945/10 己斐町
35 NG134-13 8月15日重大発表があると朝からラジオを囲む。雑音の中、かすかに天皇陛下の終戦の放送を聞く。 名柄 堯(ナガラ タカシ) 1945/8/15 己斐町
36 NG134-11 家は爆風でこわれすきまからは青空が見える。大やけどを負って寝たきりになり、バナナ籠の中で寝ていた。 名柄 堯(ナガラ タカシ) 己斐の自宅
37 NG134-10 治療のため母に背負われて己斐国民学校に通う。母の背中から負傷者が横たわっているのをこわごわと見た。 名柄 堯(ナガラ タカシ) 己斐国民学校救護所
38 NG134-08 夜、妻を呼びながら息絶えた朝鮮の人の声が忘れられない。東の空は火災で真っ赤だった。 名柄 堯(ナガラ タカシ) 1945/8/6 己斐町
39 NG134-07 山を降りるとやけどの人々が列をなしていた。道沿いに座り込む人、寝る人、泣き叫ぶ人でいっぱいだった。 名柄 堯(ナガラ タカシ) 1945/8/6 己斐町
40 NG134-06 友達と二人で裏山へ逃げ三菱の疎開工場へ。山頂から見た広島市内の火災のようす。火炎地獄のようだった。 名柄 堯(ナガラ タカシ) 1945/8/6 三菱重工業疎開工場

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