地図 "己斐・草津地区" で 111 件検索されました。
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検索結果の表示件数
No | 画像 | コード | 絵の内容 | 作者名 | 情景年月日 | 情景場所 |
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GE44-66 | ヤケドしてにげる学徒 用水で死んだ人 | 橋浜 審(ハシハマ シン) | 1945/8/6 | 己斐駅 |
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NG365-02 | 己斐国民学校は負傷者でいっぱいであった。人々の姿、うめき声は今も忘れることができない。 | 桃井 完二(モモイ カンジ) | 1945/8/7 | 己斐国民学校裁縫室 |
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NG365-01 | 少年に「おかあちゃんの所へ連れて行って」と頼まれる。頭の傷からは血があふれ骨が見えていた。 | 桃井 完二(モモイ カンジ) | 1945/8/7 | 己斐国民学校校庭 |
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GE33-11 | 講堂に寝かされた無数の負傷者に水を与える | 村井 一三(ムライ カズソウ) | 1945/8/6 | 己斐国民学校 |
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GE12-14 | 口から泡を出し腸のはみ出した死体 | 村上 美佐子(ムラカミ ミサコ) | 1945/8/9 | 己斐国民学校 |
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NG422 | 校舎の中は負傷者であふれ治療待ちの行列が延々と続いた。半死半生の人々が横たわり足の踏み場もなかった。 | 杉﨑 友昭(スギサキ トモアキ) | 1945/8/6 | 己斐国民学校 |
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SG-0544 | 家族と一緒に火傷の体で山道を歩いて逃げる | 木村 秀男(キムラ ヒデオ) | 1945/8/6 | 草津 |
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SG-0538 | 被爆者収容所となった草津国民学校 | 木村 秀男(キムラ ヒデオ) | 1945/8 | 草津国民学校 |
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SG-0537 | 被爆者収容所となった草津国民学校 | 木村 秀男(キムラ ヒデオ) | 1945/8 | 草津国民学校 |
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SG-0536 | 竹藪の中で野宿する | 木村 秀男(キムラ ヒデオ) | 1945/8/6 | 草津 |
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SG-0009-7 | 被爆体験を描いたスケッチブック(7/11) | 木村 太矩次(キムラ タクジ) | 1945/8/6 | 己斐の山 |
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GE13-30 | トラックに乗せられる大ヤケドをした被爆者たち | 木原 敏子(キハラ トシコ) | 1945/8/7 | 己斐電停前広場にて |
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NG431-01 | 廊下に山のように積まれた死体。校庭の木の近くに横たわっている人に近づくとピクッと動いた。 | 朝信 澄子(アサノブ スミコ) | 1945/8/10 | 己斐国民学校 |
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GE11-07 | 被爆者収容所。負傷者の顔はどの顔も同じようにまっ黒で区別がつかない | 有木 絢子(アリキ アヤコ) | 1945/8/11 | 己斐駅付近の収容所 |
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NG131-02 | たくさんの人が倒れていて、「お水、お水」と言われるが、水はなく畑に倒れているトマトをあげる。 | 後田 末美(ウシロダ スエミ) | 庚午の自宅近く | |
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NG131-01 | 疎開荷物を運んでいた人の大八車や背中に火がついていた。やけどした人が水を求めながら歩いていた。 | 後田 末美(ウシロダ スエミ) | 1945/8/6 | 庚午の自宅近く、国道2号線 |
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GE03-07 | 国民学校での負傷者の看護 | 平川 壽子(ヒラカワ トシコ) | 1945/8/18か、8/19頃 | 草津国民学校 |
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GE45-07 | ほとんど全裸で逃げる負傷者、赤ん坊を抱いたまま倒れている母親、歩けなくなって水を求める人 | 川合 ミヱ子(カワイ ミエコ) | 1945/8/6 | 己斐本町 |
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GE02-03 | 己斐国民学校での被災者の様子、美しく咲いていたひまわりの花 | 岡原 清子(オカハラ キヨコ) | 1945/8/7 | 己斐国民学校 |
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GE23-41 | 己斐福島町の間の旭橋の上より己斐に向い、堤の上の荷馬車を見る | 山本 政子(ヤマモト マサコ) | 1945/8/8 | 旭橋 |