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トップページ原爆の絵地図 "比治山・仁保地区"

原爆の絵

地図 "比治山・仁保地区" で 247 件検索されました。

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No 画像 コード 絵の内容 作者名 情景年月日 情景場所
61 NG230-01 原爆投下直後、オレンジ色の熱線に焼かれる中学生たち。 平野 貞男(ヒラノ サダオ) 1945/8/6 県立広島商業学校
62 NG436-09 友人の道子さんを励ましながら逃げてきたが、道子さんは動けなくなって座り込んでしまった。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 金屋町
63 NG210-05 収容された子どもたち。名前はわからずボール紙の番号札がつけられていた。 中津 久子(ナカツ ヒサコ) 比治山国民学校
64 NG028-02 収容所は異臭が漂い、負傷者は、顔の前後、男女の性別も判らない。 神原 繁人(カンバラ シゲト) 1945/8/6 広島陸軍兵器補給廠
65 GE14-44 吊橋下のたくさんの負傷者、死体 山村 政子(ヤマムラ マサコ) 1945/8/6 比治山吊橋下(雲霓橋)
66 GE28-11 国民学校が収容所となり、むしろの上に被爆者を寝かせていた。 保田 イサコ(ヤスダ イサコ) 1945/8/13 段原国民学校
67 WH01-002 土手町の長屋 高田 滿(タカタ ミツル) 土手町長屋
68 WH05-034 土手町の風景 山村 勝利(ヤマムラ カツトシ) 昭和14、15年頃 土手町
69 NG257-01 多くの負傷者を前に食べ物を口にする暇もなく治療にあたる。 服部 道子(ハットリ ミチコ) 陸軍教育船舶団司令部
70 GE25-31 多数の水を求める負傷者たち、谷間での火葬 福井 千代(フクイ チヨ) 1945/8/6、8/7 比治山本町周辺
71 NG423 多数の負傷者が橋の両側で泣き叫んでいた。 造力 晋(ゾウリキ ススム) 1945/8/6 比治山橋東詰
72 NG436-07 多聞院正面の入口につながる登り口にはたくさんの負傷者が力尽きて座っていた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 鶴見橋東詰から比治山西北方面の電車通り
73 GE09-12 大きなコンクリートの下敷になった人を助け出す 植田 ミツコ(ウエダ ミツコ) 1945/8/6 金屋町郵便局前
74 NG025-01 大きな穴を掘って死亡者を入れ、油をかけて火葬する。僧侶だった兵隊さんがお経を上げた。 原田 みどり(ハラダ ミドリ) 1945/8/8 広島陸軍兵器補給廠
75 NG117-02 大八車で死体を猿猴川の土手に運び8カ所の穴に死体を入れてガソリンをかけて火葬する。 加茂 一三(カモ カズミ) 1945/8/9 仁保国民学校近くの猿猴川の土手
76 NG453-02 大八車で死体を猿猴川の土手に運び8カ所の穴に死体を入れてガソリンをかけて火葬する。 加茂 一三(カモ カズミ) 1945/8/9 仁保国民学校近くの猿猴川の土手
77 SG-0162 大地震のような揺れ 森 孝人(モリ タカト)、森 蓮枝(モリ ハスエ) 1945/8/6 東雲町広島師範学校寄宿舎1階の廊下
78 GE40-05 大河国民学校 救護所、次々と亡くなる人を火葬にする 藤村 光子(フジムラ ミツコ)、藤村 智子(フジムラ トモコ) 1945/8/8 大河国民学校
79 NG065-02 大火傷を負いながら比治山に逃れてきて道端に横たわる人々。ふもとの方の人たちはもう息が切れていた。 小林 正巳(コバヤシ マサミ) 1945/8/6 比治山付近
80 NG292-01-15 大通りに出ると数えられないほどの黒こげの死体があり、人影はなく泣き叫ぶ声も聞こえなかった。 相川 国義(アイカワ クニヨシ) 1945/8/6 比治山下(と思われる)

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