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トップページ原爆の絵地図 "比治山・仁保地区"

原爆の絵

地図 "比治山・仁保地区" で 247 件検索されました。

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No 画像 コード 絵の内容 作者名 情景年月日 情景場所
181 NG358-04 橋の上の歩道には多くの負傷者が横たわり、近くには死んだ馬が悪臭をはなっていた。 玉田 吉之助(タマダ キチノスケ) 1945/8/6 比治山橋西詰
182 NG358-07 治療のため多くの負傷者が集まっていた。焼けた自転車で遺体を運んでいる人もいた。 玉田 吉之助(タマダ キチノスケ) 被爆から数日後 大河国民学校付近
183 NG358-08 遺体の運搬を手伝う。道の横に松丸太を並べて遺体を置き松の枯枝をおおって火葬していた。 玉田 吉之助(タマダ キチノスケ) 比治山神社の参道
184 NG371-01 建物疎開作業中B29が飛んできて落下傘を投下する。その後せん光と熱風で地面にたたきつけられた。 原 達郎(ハラ タツオ) 1945/8/6 鶴見橋のたもと近く
185 NG371-02 背中に熱風を感じ息をすると異臭がした。目を開けると夜のように薄暗くなっていた。 原 達郎(ハラ タツオ) 1945/8/6 鶴見橋のたもと近く
186 NG371-03 建物は倒壊し、多数の死者が横たわり、生存者は大やけど負い半狂乱で逃げ惑っていた。 原 達郎(ハラ タツオ) 1945/8/6 鶴見橋のたもと近く
187 NG390 草刈り作業中、閃光を見て急いで寮に帰る。先生の指示で全壊した寮から友人の遺体を運び出す。 今田 則登(イマダ ノリト) 1945/8/6 安芸郡奥海田村の学校林~皆実町一丁目の寮
188 NG401-04 家にもどったが誰もいなかった。水道から水が吹き出し一斗缶の米は焼けて真っ黒になっていた。 梶田 瞳(カジタ ヒトミ) 1945/8/6 金屋町
189 NG423 多数の負傷者が橋の両側で泣き叫んでいた。 造力 晋(ゾウリキ ススム) 1945/8/6 比治山橋東詰
190 NG436-01 女子学生たちは青竹で作った竹槍で国を守り自分を守る訓練をしていた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1942頃 広島女子商業学校校庭
191 NG436-06 橋のたもとには被爆した多くの中学校、女学校の低学年の生徒が集まっていた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 鶴見橋辺り
192 NG436-07 多聞院正面の入口につながる登り口にはたくさんの負傷者が力尽きて座っていた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 鶴見橋東詰から比治山西北方面の電車通り
193 NG436-08 火災は拡大し火事嵐が吹き始めた。私たちがこの辺りに来たときはすでに倒れた家から火が出ていた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 旧松川町メイン通り付近
194 NG436-09 友人の道子さんを励ましながら逃げてきたが、道子さんは動けなくなって座り込んでしまった。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 金屋町
195 NG436-10 この辺りは焼失は免れたが、破壊は大きく道路には、棚、柱、家庭用品などが所せましと散乱していた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 段原新町、段原中町
196 NG436-11 ようやく母校にたどりつく。ほとんどの校舎は倒れていて屋内体操場と白鳩記念館がかろうじて立っていた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 広島女子商業学校
197 NG436-12 立ち上がることができず座り込んでいると幸いにも知り合いのおばさんが私を見つけてくれた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 大河国民学校前
198 NG436-13 住み家を失った被災者が山の中腹にあった防空ごう近くのやぶの中に住んでいた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6~8/15 仁保町大河平台
199 NG453-02 大八車で死体を猿猴川の土手に運び8カ所の穴に死体を入れてガソリンをかけて火葬する。 加茂 一三(カモ カズミ) 1945/8/9 仁保国民学校近くの猿猴川の土手
200 NG462-02 防火用水槽の水を飲もうとする大やけどを負った人。 児玉 宇多子(コダマ ウタコ) 1945/8/6 青崎一丁目の国道沿いの防火用水槽

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