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トップページ原爆の絵種別 "新市民が描いた原爆の絵(その他)"

原爆の絵

種別 "新市民が描いた原爆の絵(その他)" で 799 件検索されました。

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No 画像 コード 絵の内容 作者名 情景年月日 情景場所
221 SG-0655 「あの日」カメラマンを見た7 御幸橋西詰めの地図 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) 1945/8/6 御幸橋西詰
222 SG-0654 「あの日」カメラマンを見た6 火傷の治療 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) 1945/8/6 御幸橋西詰
223 SG-0653 「あの日」カメラマンを見た5 水を求める上級生 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) 1945/8/6 御幸橋西詰
224 SG-0652 「あの日」カメラマンを見た4 スパイだ! 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) 1945/8/6 御幸橋西詰
225 SG-0478 紙芝居「少年・十三歳の原爆体験」初めての治療 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) 1945/8/6 御幸橋西詰
226 SG-0476 紙芝居「少年・十三歳の原爆体験」御幸橋西詰め 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) 1945/8/6 御幸橋西詰
227 SG-0421 御幸橋東詰で「罹災証明書」を渡す警察官 五島 弘行(ゴトウ ヒロユキ) 1945/8/7 御幸橋東詰
228 SG-0302 何百人も火傷を負った人達の行列を目にした御幸橋。一列に並んで倒れていた欄干石 松島 圭次郎(マツシマ ケイジロウ) 御幸橋付近
229 SG-0301 建物疎開作業中に被爆した子どもたち 松島 圭次郎(マツシマ ケイジロウ) 御幸橋付近
230 SG-0422 御幸橋から市中心街を眺める。「あれが福屋、中国新聞あたりか?」 廃虚と化した街は、まだあちこちが火災に包まれていた 五島 弘行(ゴトウ ヒロユキ) 1945/8/7 御幸橋
231 SG-0612 廃墟の暗闇の中に、進駐軍が整備した建物の光を見た 尾崎 稔(オザキ ミノル) 1945/9末 府中町キリンビール工場~広島貨物駅
232 SG-0018 広瀬神社付近 小尻 勉(コジリ ツトム) 広瀬神社付近
233 SG-0242 荷台で亡くなった人と、背中に火傷を負って逃げ走る馬 藤重 忠子(フジシゲ タダコ) 1945/8/6 広瀬橋の手前の道
234 SG-0539 倒壊した建物の下敷きになった人々 木村 秀男(キムラ ヒデオ) 1945/8/6 広瀬国民学校講堂
235 SG-0535 倒壊した建物の下敷になって亡くなった兄 木村 秀男(キムラ ヒデオ) 1945/8/12 広瀬国民学校講堂
236 SG-0297 倒壊した建物の下敷になって亡くなった兄 木村 秀男(キムラ ヒデオ) 1945/8/12 広瀬国民学校講堂
237 SG-0220 作者の兄の木村豊さん(当時19歳)が被爆死した際の様子を描いたもの。豊さんは防衛招集を受け、(後半省略) 木村 秀男(キムラ ヒデオ) 1945/8/12 広瀬国民学校
238 SG-0219 作者の兄の木村豊さん(当時19歳)が被爆死した際の様子を描いたもの。 木村 秀男(キムラ ヒデオ) 1945/8/6 広瀬国民学校
239 SG-0171 被害報告書を出さねば 森 孝人(モリ タカト)、森 蓮枝(モリ ハスエ) 1945/8/6 広島高等師範学校軍事教官室
240 SG-0738 火傷の傷跡に塗るため、ガマの油を買う 尾崎 稔(オザキ ミノル) 1948頃 広島駅前

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