トップページ原爆の絵種別 "市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)"
種別 "市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)" で 1411 件検索されました。
一覧表の項目欄をクリックすると、並び替えが可能です。背景が異なっている項目が現在並び替えの基準となっています。
検索結果の表示件数
No | 画像 | コード | 絵の内容 | 作者名 | 情景年月日 | 情景場所 |
---|---|---|---|---|---|---|
141 | NG246 | 子供を寝かせぼう然としている母親、360度見通しのきく砂漠のような広島。 | 槙本 喜一(マキモト ヨシイチ) | |||
142 | NG250 | ヒロシマからの平和祈願 | 村田 正之(ムラタ マサユキ) | |||
143 | NG263-06 | 防火用水槽が焼け跡に並んでいた。その後ろにはそれぞれ家が建っていたのに何もなく瓦礫のみだった。 | 加川 宏(カガワ ヒロシ) | |||
144 | NG263-08 | ピカッと光ってドンーという音の後、木の葉やトタン片、土ほこりがバラバラ降ってきた。 | 加川 宏(カガワ ヒロシ) | 1945/8/6 | ||
145 | NG265 | 道端にある防空ごうに黒焦げになった死体を見た。腹帯をしていて妊婦のようだった。 | 中澤 彪(ナカザワ タケシ) | 1945/8/8 | ||
146 | NG266-03 | 避難場所をめざして歩くが、空腹とのどの渇きで苦しかった。母が畑からトマトをもぎ食べさせてくれた。 | 煙上 博隆(エンジョウ ヒロタカ) | 1945/8/6 | ||
147 | NG279-01 | 当日の私の服装、モンペ、防空頭巾。かばんには、懐中時計、米穀通帳、衣料切符、印鑑等を入れていた。 | 山本 八重(ヤマモト ヤエ) | 1945/8/6 | ||
148 | NG286-02 | 庄原から主人を捜しに行く。子供を背負い炎天下の焼け野原を歩きようやく再会することができた。 | 八木 久子(ヤギ ヒサコ) | 1945/8/13 | ||
149 | NG292-01-33 | 広島駅をめざして鉄橋を渡る。線路にまたがり焼け残りの枕木に足を乗せて少しずつ進んだ。 | 相川 国義(アイカワ クニヨシ) | 1945/8/8 | ||
150 | NG292-01-36 | 長崎方面から列車が着いた。広島で見たのと同じ焼けただれた負傷者で列車はあふれんばかりだった。 | 相川 国義(アイカワ クニヨシ) | 1945/8/9 | ||
151 | NG292-01-37 | 列車が急停車した。車掌が「退避、敵機来襲」と走りながら叫ぶ。姉と列車の下に入り込んだ。 | 相川 国義(アイカワ クニヨシ) | 1945/8/9 | ||
152 | NG292-02-25 | 広島駅をめざして鉄橋を渡る。線路にまたがり焼け残りの枕木に足を乗せて少しずつ進んだ。 | 相川 国義(アイカワ クニヨシ) | 1945/8/8 | ||
153 | NG293-02 | 被爆の翌年の早春、がれきの下から緑が萌えているのを見た。熱いものがこみ上げ涙があふれてきた。 | 松島 道枝(マツシマ ミチエ) | 1946/早春 | ||
154 | NG303-02 | 焼けこげた母親の死体のそばにまだへその緒でつながっている月満ちた赤ん坊が横たわっていた。 | 松本 秀子(マツモト ヒデコ) | 1945/8/7 | ||
155 | NG304-01 | 表紙(爆心地より約1.5~3kmの惨状、昭和20年8月6日~10日の思い出) | 月原 四郎(ツキハラ シロウ) | |||
156 | NG311-03 | 体がだるく熱が出て床に着いた叔父。首の血管が浮き出てブドウのようになった。何の治療もできず亡くなる。 | 脇中 悦子(ワキナカ エツコ) | 1945/9 | ||
157 | NG314-21 | 学友と同じ倉橋島の出身だという修道中学校の生徒と会う。彼は顔半分を大やけどしていた。 | 細井 竹一(ホソイ タケイチ) | 1945/8/6 | ||
158 | NG314-36 | 米国のビキニ水爆実験をきっかけとして杉並区から全国に広まった原水禁署名運動について | 細井 竹一(ホソイ タケイチ) | |||
159 | NG314-37 | 被爆後の3日間の足跡 | 細井 竹一(ホソイ タケイチ) | |||
160 | NG318 | 水を求めて破れた水道管に集り、そのまま息絶えた人々。 | 青山 恭子(アオヤマ ヤスコ) | 1945/8/8 |