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トップページ原爆の絵種別 "市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)"

原爆の絵

種別 "市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)" で 1411 件検索されました。

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No 画像 コード 絵の内容 作者名 情景年月日 情景場所
1 NG042-02 閃光で目が見えなくなった人、疎開から帰った子どもの母親との再会、担架で負傷者を運ぶ人。 山本 泰正(ヤマモト ヤスマサ) 被爆後5、6日(1945/8/10~8/11)
2 NG358-07 治療のため多くの負傷者が集まっていた。焼けた自転車で遺体を運んでいる人もいた。 玉田 吉之助(タマダ キチノスケ) 被爆から数日後 大河国民学校付近
3 NG442 空鞘神社付近から原爆ドームに向けて撮った写真を図案化したもの。 秋田 サチヱ(アキタ サチエ) 1999頃 空鞘稲荷神社付近
4 NG314-35 杉並区内の被爆者の掘り起こしと組織化に取り組み杉並原爆被害者の会(光友会)が設立される。 細井 竹一(ホソイ タケイチ) 1958/2/9 杉並公民館
5 NG314-32 水爆実験即時停止などの請願署名の訴えやビラ配りのあと警察官に尾行されていることがわかった。 細井 竹一(ホソイ タケイチ) 1954/4 東京都杉並区
6 NG314-31 水爆実験即時停止、核兵器全面禁止、核兵器の国際管理を求める署名運動とチラシ配りを行う。 細井 竹一(ホソイ タケイチ) 1954/4 阿佐ヶ谷駅
7 NG293-02 被爆の翌年の早春、がれきの下から緑が萌えているのを見た。熱いものがこみ上げ涙があふれてきた。 松島 道枝(マツシマ ミチエ) 1946/早春
8 NG156 昭和21年頃の千田国民学校の講堂の残骸。青空の下で石やがれきに腰かけて先生の話を聞いた。 吉田 誠(ヨシダ マコト) 1946 千田国民学校
9 NG356-05 下痢と血便が続き、痩せて骸骨のようになった。それから半年間寝たままだった。 松尾 和子(マツオ カズコ) 1945/9~1946/2 牛田町の自宅
10 NG013-07 1カ月経っても女学生の遺体は船から離れない。足が無くなり、首と胴体だけになる。 高本 正義(タカモト マサヨシ) 1945/9/7 天満川河口付近、三菱重工業広島機械製作所前
11 NG027 欄干の落ちた相生橋には、焼けただれた自転車や電線、骨組だけになった路面電車が残されていた。 島川 省三(シマカワ ショウゾウ) 1945/9/4 相生橋
12 NG130-03 福屋ビル2階の窓にはムシロを吊り下げていた。広島駅から八丁堀に向かい千田町付近まで見る。 吉井 敏春(ヨシイ トシハル) 1945/9/3 福屋
13 NG130-02 駅から西方に機関車が倒れていた。ホームの屋根はなく降りる客もあまりいない。 吉井 敏春(ヨシイ トシハル) 1945/9/3 広島駅
14 NG130-01 線路近くの民家の屋根の一部が北方からの爆風で曲がった屋根を列車の中から見て恐怖を感じた。 吉井 敏春(ヨシイ トシハル) 1945/9/3 向洋付近
15 NG314-30 元気で再会できたことを喜び合った親友が急死した。脱毛、吐血し苦しみもだえて息を引き取った。 細井 竹一(ホソイ タケイチ) 1945/9/2 三原市
16 NG013-06 船から離れない女学生の遺体を毎日見る。今日は手が無くなっていた。 高本 正義(タカモト マサヨシ) 1945/9/2 天満川河口付近、三菱重工業広島機械製作所前
17 NG222 宇品から徒歩で御幸橋を渡り市内に入る。橋の欄干は倒れたまま、焼け野原で人影はなかった。 富澤 正雄(トミザワ マサオ) 1945/9/18 御幸橋
18 NG134-15 己斐国民学校の授業再開。うれしかった。しかし運動場の焼き場跡にはたくさんの人骨がいつまでも見られた。 名柄 堯(ナガラ タカシ) 1945/9/18 己斐国民学校
19 NG449 ホームのコンクリートだけになった広島駅、雨の中、毛布を頭からかぶった幽霊のような女性。 安藤 重美(アンドウ シゲミ) 1945/9/15 広島駅
20 NG439-02 廃墟の中、焼けた路面電車が二両放置されていた。瓦礫からは無数の青白い燐光が立ち上がり消えていった。 中川 清(ナカガワ キヨシ) 1945/9/13 広島駅

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