トップページ原爆の絵種別 "市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)"
種別 "市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)" で 1411 件検索されました。
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検索結果の表示件数
No | 画像 | コード | 絵の内容 | 作者名 | 情景年月日 | 情景場所 |
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141 | NG183-34 | 昭ちゃんの左頬は皮膚がむけウジがわいた。熱にうなされ火事ややけどの人がさまよう夢を見た。 | 山口 昭治(ヤマグチ ショウジ) | 比婆郡山内西村の自宅 | ||
142 | NG183-35 | 終戦と同時に呉海軍工廠に行っていたおねえさんが帰ってきた。それで日本が負けたことを知った。 | 山口 昭治(ヤマグチ ショウジ) | 比婆郡山内西村の自宅 | ||
143 | NG183-36 | 入院したおかあさんは大けがで顔中にガラス片がささっていた。そこでも毎日多くの人たちが亡くなった。 | 山口 昭治(ヤマグチ ショウジ) | 山内西国民学校 | ||
144 | NG183-37 | 仮設病院の裏庭でも多くの亡くなった人たちを火葬にした。 | 山口 昭治(ヤマグチ ショウジ) | 山内西国民学校 | ||
145 | NG183-38 | 奇跡的に助かったおかあさんは、退院し無事に赤ちゃんを産んだ。 | 山口 昭治(ヤマグチ ショウジ) | 比婆郡山内西村の自宅 | ||
146 | NG183-39 | 原爆の時のことを思い出し亡くなった人のご冥福と無事に生きられた人の幸福を祈る。 | 山口 昭治(ヤマグチ ショウジ) | 原爆ドーム | ||
147 | NG183-40 | 一発の原子爆弾により廃墟と化した広島、二度と戦争はあってはならない。 | 山口 昭治(ヤマグチ ショウジ) | |||
148 | NG183-41 | 「いまの幸せを大切にしたい」 | 山口 昭治(ヤマグチ ショウジ) | |||
149 | NG192-01 | 呉海軍工廠にトラックで搬送された被爆した兵士たち。 | 藤本 盛男(フジモト モリオ) | 呉海軍工廠 | ||
150 | NG194 | 元安川に女性が浮いているのを見て母を思い、泣きながら避難場所に急いだ。 | 岩原 節子(イワハラ セツコ) | 元安橋、福島町の土手、広島県庁前 | ||
151 | NG205 | 橋の上に座り込む負傷者、ムシロをかぶされた死体、リヤカーで運ばれる人。 | 中藤 智行(ナカトウ トシユキ) | 御幸橋 | ||
152 | NG209-04 | 似島検疫所に収容された全身やけどの女性と看病する家族。 | 小笠原 ツル子(オガサワラ ツルコ) | 似島検疫所 | ||
153 | NG210-02 | 息を引き取った赤ん坊を抱き「今まで乳を飲んでいたのに」と悲痛な叫び声を上げる母親。 | 中津 久子(ナカツ ヒサコ) | 仁保町 | ||
154 | NG210-05 | 収容された子どもたち。名前はわからずボール紙の番号札がつけられていた。 | 中津 久子(ナカツ ヒサコ) | 比治山国民学校 | ||
155 | NG225-01 | 現在の原爆ドーム(元広島県産業奨励館) | 今中 弘子(イマナカ ヒロコ) | 原爆ドーム | ||
156 | NG226-01 | 病院の内外には足の踏み場もないほどの負傷者であふれていた。不眠不休の救護活動が続けられた。 | 西山 勝登(ニシヤマ カツト) | 広島赤十字病院 | ||
157 | NG226-02 | 一瞬の閃光と爆風に広島は壊滅した。道路は負傷者のうめき声とがれきでいっぱいだった。 | 西山 勝登(ニシヤマ カツト) | |||
158 | NG236-01 | 救護所で救援活動を行う。絶え間のない空襲警報で防空ごうに向かうこともしばしばだった。 | 知久 喜代野(チク キヨノ) | 三星製菓、大正橋付近 | ||
159 | NG236-02 | 負傷者であふれた救護所。この惨状の中で出産というできごともあり、懸命にその世話をした。 | 知久 喜代野(チク キヨノ) | 青崎国民学校 | ||
160 | NG238-02 | 三菱重工業社宅前の道路には、全身に包帯を巻いた負傷者がたくさん横たわっていた。 | 大島 幸子(オオシマ ユキコ) | 三菱重工業社宅 |