トップページ原爆の絵種別 "市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)"
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No | 画像 | コード | 絵の内容 | 作者名 | 情景年月日 | 情景場所 |
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1321 | NG187-02 | トラックに負傷者を乗せるのを手伝う。やけどした全裸の女性に体をおおうためのカーテンを渡した。 | 長船 久(オサフネ ヒサシ) | 1945/8/6 | 東大橋 | |
1322 | NG071-01 | 会社の寮にいた時ものすごいせん光が走り爆風で建具がみな吹き飛んだ。隣りの鋳物工場の爆発かと思った。 | 長見 英希(ナガミ ヒデキ) | 1945/8/6 | 日本製鋼所広島製作所の寮 | |
1323 | NG071-02 | 近くの山に登って高い所から広島の様子を見る。 | 長見 英希(ナガミ ヒデキ) | 1945/8/6 | 船越の近くの山の上 | |
1324 | NG071-03 | 山陽本線の陸橋の所で初めて死体を見る。女性で戸板が乗せてあった。片腕から骨が出ていた。 | 長見 英希(ナガミ ヒデキ) | 1945/8/8 | 山陽本線の陸橋 | |
1325 | NG071-04 | 京橋川にたくさんの死体が浮いていた。女性は上向き、男性は下向きだった。 | 長見 英希(ナガミ ヒデキ) | 1945/8/8 | 京橋川 | |
1326 | NG071-05 | 鞍の部分をのぞいて全身火傷した馬。白木の箱に入れた遺骨を首から下げて行く人。 | 長見 英希(ナガミ ヒデキ) | 1945/8/8 | 広島逓信局前 | |
1327 | NG071-06 | 爆風で倒れた広島城。熱線で焼けたお堀のハス。 | 長見 英希(ナガミ ヒデキ) | 1945/8/8 | 広島城 | |
1328 | NG071-07 | 爆風で倒れた松。竹ぼうきのようになっていた。 | 長見 英希(ナガミ ヒデキ) | 1945/8/8 | 縮景園 | |
1329 | NG071-08 | 全焼した電車が中国新聞社前に止まっていた。 | 長見 英希(ナガミ ヒデキ) | 1945/8/8 | 中国新聞社前 | |
1330 | NG071-09 | 相生橋の様子 | 長見 英希(ナガミ ヒデキ) | 1945/8/8 | 相生橋 | |
1331 | NG071-10 | 瀬野川土手での死体の火葬。 | 長見 英希(ナガミ ヒデキ) | 1945/8/15 | 瀬野川土手 | |
1332 | NG295 | 向原国民学校からきのこ雲を見る。学校は陸軍病院になっていて、原爆被災者の収容所になった。 | 門橋 政子(モンバシ マサコ) | 1945/8/6 | 向原国民学校 | |
1333 | NG074-01 | 宮内村から廿日市町に向かう途中、B29を見る。その後せん光と爆音があり、きのこ雲が上がった。 | 関 孝三(セキ コウゾウ) | 1945/8/4~8/6 | 広島市内、佐伯郡宮内村~廿日市町 | |
1334 | NG074-02 | せん光・爆音に馬は驚いて立ち上がった。黒い雨にぬれた人たちが避難してきた。己斐駅から負傷者を運んだ。 | 関 孝三(セキ コウゾウ) | 1945/8/6~8/8 | 宮内村~廿日市町までの堤道、己斐駅、広島駅 | |
1335 | NG336-01 | 障子が真っ黄色になったのを部屋の中から見る。「あらっ」と思った時ドーンという音がした。 | 青原 久子(アオバラ ヒサコ) | 1945/8/6 | 安佐郡祇園町の自宅 | |
1336 | NG336-02 | 祇園町の自宅より市内にきのこ雲が上がるのを見る。 | 青原 久子(アオバラ ヒサコ) | 1945/8/6 | 安佐郡祇園町の自宅 | |
1337 | NG336-03 | 夜、真っ赤に燃え続ける市内。 | 青原 久子(アオバラ ヒサコ) | 1945/8/6 | 安佐郡祇園町の自宅 | |
1338 | NG336-04 | 被爆死した父の帰りを待ち、男の人を見るたびに「おとうさんが帰ってきた」と追いかけていく妹。 | 青原 久子(アオバラ ヒサコ) | 安佐郡祇園町の自宅付近 | ||
1339 | NG336-05 | 後障害に苦しみ髪の毛が抜け始めた母。柿のしぶがいいと聞き毎日もらいに行って母に飲ませた。 | 青原 久子(アオバラ ヒサコ) | 1945/8/6以降 | 安佐郡祇園町の自宅 | |
1340 | NG336-06 | 原爆のことをピカドンと呼んでいた。昭和20年8月6日はピカドンで始まりピカドンで終わった一日だった。 | 青原 久子(アオバラ ヒサコ) | 1945/8/6 | 安佐郡祇園町の自宅 |