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トップページ原爆の絵種別 "市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)"

原爆の絵

種別 "市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)" で 1411 件検索されました。

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No 画像 コード 絵の内容 作者名 情景年月日 情景場所
1281 NG431-03 くずれた赤レンガを起こしたら髪の毛のついた頭皮がくっついていて、まだ煙が出ていた。 朝信 澄子(アサノブ スミコ) 1945/8/10 木挽町
1282 NG432 宇品から似島検疫所に船で負傷者を運ぶ。皆全裸でやけどし水を欲しがっていた。3日間作業は続いた。 福田 安次(フクダ ヤスジ) 1945/8/6 広島港
1283 NG433-01 川面にはまん丸にふくれた死体が数え切れないほど漂っていた。 田邉 俊三郎(タナベ シュンザブロウ) 1945/8/7 元安川
1284 NG433-02 真っ黒な焼死体。手足を広げて口を開け舌はふくらんで飛び出し眼球は20cmくらい飛び出していた。 田邉 俊三郎(タナベ シュンザブロウ) 1945/8/7 中島本町(と思われる)
1285 NG433-03 赤ん坊を抱いた母親の真っ黒焦げの死体があった。赤ん坊の頭をそっとなでると灰になった。 田邉 俊三郎(タナベ シュンザブロウ) 1945/8/7 南大橋付近
1286 NG433-04 市内の道路という道路は死体がいっぱいで通れない。兵隊さんがトビ口で死体を集めて並べていた。 田邉 俊三郎(タナベ シュンザブロウ) 1945/8/8
1287 NG433-05 船のへさきの所に白くなった少年の死体が立ち泳ぎしているかのように漂っていた。 田邉 俊三郎(タナベ シュンザブロウ) 1945/8/9 瀬戸内海
1288 NG434-01 広島方向に落下傘が3個見え、にぶい音がして溶接時のような光とともに煙の柱が立ちきのこ状になった。 山本 修(ヤマモト オサム) 1945/8/6 焼山通信基地
1289 NG434-02 人々の目には、ウジがわき悪臭がした。頭髪はなく顔はただれ腕は火ぶくれ状態であった。 山本 修(ヤマモト オサム) 1945/8/10くらい 学校か公会堂の救護所
1290 NG435 私の見た原爆。2つの落下傘。 丸山 克巳(マルヤマ カツミ) 1945/8/6
1291 NG436-01 女子学生たちは青竹で作った竹槍で国を守り自分を守る訓練をしていた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1942頃 広島女子商業学校校庭
1292 NG436-02 広島女子商業学校1、2年生約500人と教職員が建物疎開の後片付けをしていた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 鶴見町
1293 NG436-03 防空頭巾をつけたまま空のB29爆撃機を見ているところで原爆の熱線を直接に浴びた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 鶴見町
1294 NG436-04 建物疎開作業中に被爆した学徒たち。閃光に続いて爆風に襲われた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 鶴見町
1295 NG436-05 爆風が通過した後しばらくして崩壊した街の中から黒い煙の筋が幾本も立ちのぼった。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 鶴見町
1296 NG436-06 橋のたもとには被爆した多くの中学校、女学校の低学年の生徒が集まっていた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 鶴見橋辺り
1297 NG436-07 多聞院正面の入口につながる登り口にはたくさんの負傷者が力尽きて座っていた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 鶴見橋東詰から比治山西北方面の電車通り
1298 NG436-08 火災は拡大し火事嵐が吹き始めた。私たちがこの辺りに来たときはすでに倒れた家から火が出ていた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 旧松川町メイン通り付近
1299 NG436-09 友人の道子さんを励ましながら逃げてきたが、道子さんは動けなくなって座り込んでしまった。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 金屋町
1300 NG436-10 この辺りは焼失は免れたが、破壊は大きく道路には、棚、柱、家庭用品などが所せましと散乱していた。 松原 美代子(マツバラ ミヨコ) 1945/8/6 段原新町、段原中町

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