識別コード | SG-0565 |
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絵の内容 | 「横浜国民学校」 |
作者名(カナ) | 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) |
作者名(英語) | Seigo Nishioka |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | 西岡 誠吾 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/8/9(時刻)夜 |
情景場所 | 坂町 横浜国民学校 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | |
作者による説明 | *別紙 8月9日の記憶 令和元年盛夏 西岡誠吾 まえがき 私は爆心地南2㎞で被爆して、火傷と怪我をし、多くの人に助けられました。 兵隊さんの献身的な援助を受け、収容所へは担架に担がれ、トラックや船で次の通り移動しました。 8月6日~7日 広陵中学校(宇品) 8月7日~9日 暁部隊(宇品 陸軍船舶隊) 8月9日~15日 横浜国民学校(坂町 横浜小学校) 8月15日~ 親戚宅(尾道市因島原町) この期間で、「8月9日」の記憶について記述します。「あの日」のことは、昨日の事の様に記憶をしていますが、70余年の経過と加齢に伴い、一部記憶の薄れたところもあります。 「4 横浜国民学校」 私達を乗せた上陸用舟艇は横浜国民学校に隣接する浜辺に乗り上げて被爆者を担架に乗せて、学校の教室内へ収容しました。被爆者は男女別に分かれて収容されました。 教室の外では、国防婦人会のおばちゃんたちが、仕出し用の「おむすび」を作っていました。 広島市内の収容所では大火災の影響で明るく、家族を探す大声や兵隊さんの声がしてとても喧しかったが、横浜国民学校の収容所では日が暮れると真っ暗で、大変静かでした。聴こえてくるのは浜辺の波の音で時々潮の香が教室内に入って来ました。 私の左隣のおじさんは苦しそうに「う~、う~」とうなっていましたが、次第に小さな声になり、突然息をしなくなりました。 避難をするとき多くの死んだ人を見ても驚かなくなりましたが、身近で死んでいく人を見たのは初めてで、13歳の少年には大きなショックでした。真っ黒な教室の天井を眺めながら家族や友人のことが心配になり、これからどうすれば良いか不安な日が始りました。 あとがき 教室の窓から顔を出すと、国防婦人会のおばさんたちが声を掛けてきました。「家族は分からんの?」「家は焼けたん?」「熱かったでしょう」「痛かったでしょう」と慰めの声を掛けてくださいました。おばさんたちが母の顔に見えて、突然涙があふれ出ました。13歳の軍国少年はまだ乳離れしていませんでした。 |
サイズ(cm) | 21×29.7 |
展示の説明文 | 作者 西岡誠吾さん(被爆当時13歳) 県立広島工業学校1年生だった西岡誠吾さんは、学校内で被爆しました。気がついた時には、校舎の下敷きになって身動きが出来ず、どうにか助け出されたものの、顔や手にはやけどを負い、足にも傷を負っていました。 坂町・横浜国民学校 船で坂町にたどり着いた被爆者は、学校の教室に収容されました。私の左隣のおじさんは、苦しそうに「う~、う~」とうなっていましたが、次第に小さな声になり、突然息をしなくなりました。身近で死んでいく人を見たのは初めてで、13歳の少年には大きなショックでした。 |