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トップページ原爆の絵死んだ兵隊を焼き場まで運び、積み上げた丸太の上に並べて焼く

原爆の絵

識別コード SG-0532
絵の内容 死んだ兵隊を焼き場まで運び、積み上げた丸太の上に並べて焼く
作者名(カナ) 渡慶次 恒徳(トケシ コウトク)
作者名(英語) Koutoku Tokeshi
当時の年齢 29歳
寄贈者名 竹中 茂子
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945/8/9
情景場所 向原
情景場所旧町名 高田郡
情景場所現町名 安芸高田市向原町
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵中
広島で被爆した兵隊たち九十人ほどが、向原の女学校の講堂に収容されていた。毎日、兵隊は死んだ。死体を焼くのが間に合わないほどだった。死体を焼き場まで運ぶのが警防団の仕事だった。講堂の床にも布を敷き兵隊たちは寝ていた。傷口にうじ虫がうごめいていた。苦しくて転げまわったらポロポロとうじ虫がこぼれ落ちた。治療しようにも薬はなく、うんだ傷口に赤チンをつけるのがやっとだった。息たえた兵隊を血うみでかちかちになった毛布でくるみ、担架にのせて山の中腹につくった広場で焼いた。
松の生木の丸太を積み上げ、その上に8人並べ火をつけた。松の生木は火がついてしまうと火力は強く、人が燃える臭いをかいで、2カ月前の広島の惨状をまざまざと思い出し、鼻の奥にしみついた異臭がよみがえっていたたまれなかった。焼かれた人骨と灰はスコップでかき集められ、空き地に積み上げられていた。

**書籍
九月に入ったある日、警防団十六人に召集がかかった。向原の女学校の講堂には、広島で被爆した兵隊たちが収容されていた。最初九十人ほどいた負傷兵たちは、収容されて間もないころは一日十人以上が死んで、遺体を焼くのが間に合わなかったが、十月になると死んでいく兵隊の数は減り、二日に一回ほどの召集となった。その死体を焼き場まで運ぶ仕事が、召集を受けた恒徳たち警防団員の任務だった。
講堂の床に毛布を敷き、兵隊たちはあきらめたような眼差しをして寝ていた。傷口に蛆虫がうごめいていた。兵隊が苦しげな声をあげて、寝返りをうったらボロボロと蛆虫がこぼれ落ちた。治療しようにも薬剤はなく、膿んだ傷口に赤チンをつけるのがやっとだった。食料が底をつき、栄養失調の状態で重傷の人たちに回復をのぞめるわけもなかった。
息絶えた兵隊を血膿でかちかちになった毛布でくるみ、二人一組で担架に載せて、向かいの山の中腹にあった急ごしらえの焼き場まで運んだ。本来、女学校から焼き場までは藪がおおっていたはずなのに、今では担架を運ぶ人たちの行き来で、山の斜面にくねった一本の自然の道ができた。
焼き場では、松の生木の丸太を組んで積み上げ、八体の死体を並べた上に血膿で固まった毛布をかけて火をつけた。毛布がいやいや燃え始めた。山の斜面を煙がはい登っていった。松の生木は一旦火がついてしまうと火力は強い。人が焼ける臭いをかいで恒徳は、二カ月前の広島の惨状をまざまざと思い出し、鼻の奥にしみついた異臭がよみがえって、いたたまれなかった。焼かれた兵隊の人骨と灰はスコップでかき集められ、空き地に積み上げられていた。
宇多滋樹『豚の神さまー渡慶次恒徳の半生』(宇多出版企画 1999年、pp.111-113)
サイズ(cm) 122.5×180
展示の説明文

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