menu

トップページ原爆の絵稲光を感じ、ドロドロという音を聞く。キノコ雲が見える。広島から負傷者が下車してくる。

原爆の絵

識別コード SG-0526
絵の内容 稲光を感じ、ドロドロという音を聞く。キノコ雲が見える。広島から負傷者が下車してくる。
作者名(カナ) 渡慶次 恒徳(トケシ コウトク)
作者名(英語) Koutoku Tokeshi
当時の年齢 29歳
寄贈者名 竹中 茂子
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945/8/6
情景場所 安芸高田市八千代町
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵中
A
思い出、1
1945年8月、霧の中で稲光を感じ八歩歩いてドロドロという音を聞く。あまりの大きさに、雷ではなく何か異変が起きたことを感じる。
B
広島←51㎞→甲立 可部、上根
8時35分頃、霧も晴れ、西の空にキノコ雲が見える。みんな何が起きたかわからない。あまり音が大きかったので、51キロ離れた広島とは誰も信じなかった。
C
10時過ぎ、広島からの汽車が着く。一般の人に混じって、広島からのけが人が下車する。気が転倒して何しに来たかわからない。行先もわからない。夜10時までこの人達百人余りを、婦人科病院、小児科医院、内科医院へ運ぶ。満員で余った人はお寺、小学校に運ぶ。夜食を食べている時、広島行の命令下る。深夜12時、先発隊35人甲立駅出発。

**書籍
六日の朝、恒徳は肥つぼに貯まった肥を天秤棒で担いで畑へ運んでいた。この地方では、天気の良い日に決まって朝霧がかかり、あたりは白乳色の霧がたちこめ、午前十時ごろには消える。肥を担いで畑に入り、十歩ほど進んだところで、ピカッと光った。雷かと思った。肥を畑にまいてから少し歩いたとき、ドロドロドロと大地を震わせる音が轟いた。「霧がかかって晴れた朝に、雷が鳴るなんておかしいな」と思った。轟音の響き方も雷とは少し違うような気がする。
霧がうすれていくにつれて、巨大なキノコ状の雲が上空へ盛り上がっていく情景を南の方向遠くに見た。近所の人たちも家から出てきて、化け物のような雲を見ていた。恒徳は肥つぼと畑の間を行き来する間に、幾度かキノコ状の雲を眺めた。ニ十分ほど経つと雲は想像できないほど高く上昇して、ますます奇怪な形になっていた。
「あの雲は何だろう?爆弾なら、見たこともない巨大な威力の爆弾だ。いったい、どこの町がやられたのだろう」

被爆者の逃避行
お昼前になって、警防団に召集がかかった。二時間ほどして甲立駅にいくと、駅舎には全身焼けただれた人たち二十人ほどが、虚ろなまなざしをして駅舎内の腰掛けに座ったり、外の木陰にうずくまったりしていた。衣服は腋の下や縫い目だけが燃え残っているだけで、裸に近い姿だった。顔、腕、手、足の皮がペロッとむけた肌からは血がにじみ、黄色い汁が噴き出していた。髪が焼けてチリチリに縮れた中年の女性が多かった。広島に巨大な爆弾が落とされたことは、負傷者のうちの一人に聞いて初めて知った。そして彼女は「恐ろしかったので、とにかく汽車に乗った」と言った。広島から五十キロも離れた甲立にまで負傷者が逃げてくるのなら、広島はどんなに恐ろしいことになっているのだろう、と考えたら身震いする思いだった。
負傷者の収容に警防団は追われた。大八車やリヤカーに乗せて医院に運んだ。医院といったって、町にそう多くはない、一軒の医院に五人も収容すれば満杯になった。しかし、二時間おきに広島から列車が到着するので、負傷者は増える一方である。医院に入りきれなかった負傷者を学校や寺に連れて行った。この日、負傷者すべてを収容できたのは、夜十時を過ぎていた。
遅い夕食を食べていた恒徳に「警防団員は午前零時に甲立駅へ集合せよ」という連絡があった。警防団が広島へ三日間、救護におもむくのだという。恒徳はコメ五合に麦を混ぜてリュックサックに詰め、国民服に編み上げ靴をはきゲートルを巻いた。
宇多滋樹『豚の神さまー渡慶次恒徳の半生』(宇多出版企画 1999年、pp.98-100)
サイズ(cm) 122×180
展示の説明文

戻る

Page Top