トップページ原爆の絵子どもを守るような姿勢のまま黒焦げになった母子
識別コード | NG443 |
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絵の内容 | 子どもを守るような姿勢のまま黒焦げになった母子 |
作者名(カナ) | 植田 貢(ウエダ ミツグ) |
作者名(英語) | Mitsugu Ueda |
当時の年齢 | 34歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/7(時刻)8:00頃 |
情景場所 | 上流川町の広島中央放送局前の道路 |
情景場所旧町名 | 上流川町 |
情景場所現町名 | 幟町 |
爆心地からの距離 | 1,000m |
ブロック別 | 銀山・幟地区 |
作者による説明 | **絵の中 平成14年4月3日 植田貢(91歳) 私の最も強い印象は 昭和20・8・7 朝8時(?) 上流川 当時 放送会館の前の道路で、 おかあさんが ピカの熱線から我が子を守るため道路にふせられたものと思ふ 親子共眞黒で八月七日の朝は崩れてはゐなかった 母は強い!! 宇品← 西側 **別紙 S20.8.7 朝7時頃、近所の人数人で前日8.6広島市内に働に出られた人、学生を探しに出広その時上流川町当時NHKの放送会館の前路で目撃 年月日 昭和20.8.7 時刻 午前7時頃 場所 広島市上流川町NHK放送会館前の路上 お母さんがピカの瞬間我が子を守るため伏せられたのだと思いました。母の愛の偉大さが天に通じてか一昼夜にならんとするに2人共眞黒のままでくづれてゐませんでした 涙が出ました 手を合しました。 千田町の高等工業学校は延焼中バタンバタンと倒れてゐました。広島市内の人は達者の人は皆無で焼けるまま。 あちこちの収容所を探しましたけんど顔見しりの人は居ませんでした。“水を頂戴”とかよわい必死の水を求める声が残って、空しく夕方帰宅しました “水”を求める声は今も残ってゐます |
サイズ(cm) | 14.5×20.8 |
展示の説明文 |