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トップページ原爆の絵爆風で家はこわれ体中にガラス片を受ける。恐怖で震えが止まらずおむすびも喉を通らなかった。

原爆の絵

識別コード NG310
絵の内容 爆風で家はこわれ体中にガラス片を受ける。恐怖で震えが止まらずおむすびも喉を通らなかった。
作者名(カナ) 渡部 俊典(ワタナベ トシノリ)
作者名(英語) Toshinori Watanabe
当時の年齢 5歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6~8/7
情景場所 三篠本町
情景場所旧町名 三篠本町
情景場所現町名 三篠町
爆心地からの距離 2,500m
ブロック別 三篠・祇園地区
作者による説明 **絵の中
1
1945年8月6日8時15分前
朝のだんらん
近所の子らと縁側でお遊び中
姉(8才)は大芝国民学校え今日は昆虫採集の日
2
原子爆弾投下
ボーイング29ウラニウム
ピカドン(ピカ)閃光 熱線何千度以上
爆風により家が破壊
柱の下敷なりガラスの破片で大ケガする
兵隊さんに治療してもらいました。
3
ボロ切れのような皮フをたれ両手を広げて焼けこげた布を腰にまとい泣きながら群れ歩いたはだかの行列
水、水、おみずを下さいとどこかへ行く(大火傷)
4
父親は大火傷を負い途中で治療して5~6時間かけて頭からドンゴロスを掛け帰って来ました
自分(5才)防空頭巾とおむすび、あまりの恐怖で、ふるえが止まらず咽に通りません
5
山手川土手の竹林で一夜をすごす(今の太田川放水路)
黒い雨が降りました。
竹に(カヤ)を張りました。
6
あくる朝 朝日がさせばすでに動く物はなく異臭のよどんだなか街は廃きょ道端は黒焦げの屍体
あっちに、こっちにごろごろ筆舌に尽し難い断片ではありますが脳裏に残っています。
(被爆体験)心に傷、地獄絵、生き残った、罪悪感深い
被爆者の髙齢化と被爆体験の風化が進むなか、若い世代に継承していくため恒久平和の実現を強く求めます。
1940.5才被爆(三篠本町)
渡部俊典

**別紙
戦争、被爆体験について
当時5才でした。家族は現在の西区三篠本町に住んでいました。爆心地から2km以内です。それまでは父親の仕事で長崎県佐世保港の仕事で大村に住んでいましたが軍事基地なのであまりにも空爆がひどいので、地元の広島、吉島飛行場の建設現場に仕事を変えてもらい帰って来ましたところで、まもなくピカドン(原爆)に遭遇しました。8月6日、8時15分前までの渡部宅では母親と自分(5才)弟(3才)妹(0才)父親は吉島現場へ姉(8才)は大芝国民学校へ今日は昆虫採集があるといって採集あみと虫かごを持って学校へ行きました。自分は自宅の縁側で弟と近所のおともだち勝ちゃん(5才)も朝はやくから遊びに来ていました。その時、大惨事が起きたのです。閃光が走り爆風により家が破壊されガラスの破片が体中にささり傷を負い、気を失っていました。何時かたって兵隊(衛生兵さん)に治療してもらいました。家は(どこの家も)爆風で倒壊し火事のおそれが有るので大事な品物、金値物を井戸へ投げこみました。これは母親の機転だったそうです。みんなで持たれるだけの道具品物を持って子供を引き連れ現在の太田川放水路、山手川の土手に竹林があり大ぜいの人々も避難していました。ところで姉の方は体中ぼろぼろになりながら採集あみと虫かごをもって学校から帰ってきました。あとの話ですが母親は長女の光影を見て力がわいてきたそうです。炊き出しのおむすびをもらいましたがなかなか咽に通らなかったです。あまりの恐怖でかたまってしまい声も出ません。ふるえが止まらず、とても恐かったです。突然父親が背中に大火傷し家までたどり着いたのです。途中治療しながら吉島から三篠まで橋が何ヵ所も倒壊し渡れません。大回りしながら6~7時間かけて帰って来ました。その変貌ぶりを見て母親は「あんた生きとったん」父親の姿を見て我にかえったそうです。それほどパニック状態にあったのです。竹林にかやを張り黒い雨が降る中、一夜をすごしました。あくる日、家の方は延焼により家財は焼けて何もありませんでした。このあと可部町大林に疎開し、父親の火傷もあり、当分の間は大変な生活でした。原子爆弾が米国のB29で広島・長崎に投下されたことにより、第2次世界大戦が終決しました。(敗戦です)原爆の惨状は筆舌に尽くし難い。死体は道ばたに、あっちこっちに、ごろごろという状態でした。その残虐さは街は廃墟と化し人々の生活は消え去ったのです。当時5才の子供が断片ではありますが風景・色・音・においは未だに、その威力と残虐さが記憶として、脳裏に残っています。
サイズ(cm) 51.5×72.5
展示の説明文

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