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トップページ原爆の絵焼け跡に家屋が建ち始め、学校は青空教室で再開された

原爆の絵

識別コード GE19-21
絵の内容 焼け跡に家屋が建ち始め、学校は青空教室で再開された
作者名(カナ) 神田 イツコ(カンダ イツコ)
作者名(英語) Itsuko Kanda
当時の年齢 42歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時 1945/夏の終わり頃
情景場所
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵の中 
P-6.
青空敎室
④夏の終り頃、小学校に子供等が集まり始める。三日、三晩焼け続け、灰になった、原爆野原のあちこちに、ベトナムの村落の家々を見るような、小さな、ほっ建て小屋が出来始め、疎開先きから、我家の焼跡に帰って来た家族、子供等がぼっぼっと焼けた学校に姿を見せ始め、二十人、三十人ともなれば、勉強机を疎開先から取り戻し、青空天井で授業が始まったのは九月の半を過ぎてからでした。
小雨が降れば何か幕でも張って、間に合せ、ひどい時は早引きしたり休んだり正常な授業にはなりません。私は、家も家財も一さいを灰にしたので、主人も死に、二人の娘と共に里に厄介になっていて、学校迄は、五、六Kの道のりがあり、電車も、バスもないので徒歩で二時間半もかかり、一日勤めれば、すっかり疲れて、あとの二日は休んで休養をとらねば、体がもてません。途中の道が大変だったのです。平たんなものではなく、曲りくねった、焼残りの鉄筋の建物、根元ばかりを残して
④の続き、
道端につっ立っている木の根かぶ。焼け残りの街路樹、その廻りには散らばる、焼残った木材、瓦のかけら石ころなど人がすっすと通れる道などないのです。痛い足を引ずり乍ら転ばないように気を配り乍ら、ガラスの破片などよけよけ歩くじか足袋も重く、とにかく疲れた。それでも、帰路焼跡に立ち入り、炭を拾ってフロシキ一杯つめ込み持ち帰っては夕食をたいたり、お湯を湧かすその燃料にした。この炭が夛量の放射能を含んでいたことを、後程、知ってぞっとした。青白いほのほを出して、よくもえた。その炭の色、それは、あの時の光、そのものであった。ここでも亦放射能を吸ったわけだ。
焼あとに残っている木炭
電車の線路
サイズ(cm) 51×36.5
展示の説明文 青空教室

1945年(昭和20年) 夏の終わりごろ
神田 イツコ (原爆投下時42歳、絵を描いた時72歳)

【作者のことばから】
夏の終わりごろ、小学校に子どもらが集まり始める。
勉強机を疎開先から取り戻し、青空天井で授業が始まったのは9月の半ばを過ぎてからでした。

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