| 識別コード | SG-0755 |
|---|---|
| 絵の内容 | 父の思い出 ミカン農家になる |
| 作者名(カナ) | 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) |
| 作者名(英語) | Seigo Nishioka |
| 当時の年齢 | 13歳 |
| 寄贈者名 | 西岡 誠吾 |
| 種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
| 情景日時 | |
| 情景場所 | |
| 情景場所旧町名 | |
| 情景場所現町名 | |
| 爆心地からの距離 | |
| ブロック別 | |
| 作者による説明 | *絵中 7 ミカン農家になる 1945年8月6日8時15分。1発の原子爆弾で広島市内は大きな被害を受けました。幸いにも私の家族5人の命は助かりましたが、家を焼かれ父は仕事を失いました。 両親は母の実家に身を寄せて、慣れないみかん農業を始めました。場所は大崎下島の大長村、当時のミカン農家は高収入を得ていました。父は借金をして自宅を建て、隣の島大崎上島のミカン畑と農業用手漕ぎ船を購入しました。3人の息子は広島市内に下宿して通勤、通学をしました。 ミカン畑は手漕ぎ船で1時間かけて隣の島に上陸します。海岸から歩くこと約10分、左右の段々ミカン畑を眺めながらの一番奥の段々ミカン畑です。 父が購入したミカン畑の広さは知りませんが「木の数は500本位で、幼い木だからこれからが楽しみだ。最上段は開墾してミカンの苗木を植えて収益を増やす」と希望に燃えていました。 畑の入り口に小さな小屋があり、その前にはきれいな小川が流れていました。学校の休みには父と二人で、小屋に2週間ぐらい寝泊りをして農作業や開墾作業をしました。母は被爆後体調が悪いので自宅に残っていました。 「ポツンと1軒家」の小屋での生活は自然に恵まれ、農作業が捗りました。 1950年11月1日。父は白血病で47歳の若さで帰らぬ人となりました。私は19歳の高校3年生でした。 *別紙 おわりに 父の兄弟は学校の先生や会社のサラリーマンでした。父は「ワシは社長兼小使いじゃ。努力すれば必ず結果がでる」が口癖でした。 大阪市に住んでいる時自動車の運転免許を取得しました。その時の実車試験は試験場コースのスタート時から指定折り返し点までを前進運転、続いて後進運転でスタート点に戻る試験でした。規定時間内に脱輪しなかったら合格でした。父は「ワシは実車試験で1番じゃった」と自慢をしていました。脱輪をする人は前進運転時でした。後進運転に余裕を持たそうと思うのでしょう。 タクシー業を営んでいる時、日曜日はお得意の要求が無い限りは休日でした。父は休日になると作業服に着かえて、自動車の点検整備をしていました。エンジンの分解からボディの傷の修理まで一人でやっていました。私は邪魔にならないように父の仕事を観ていました。 手先の器用な父は頼まれたら何でも無償でやりました。大工仕事、ペンキ塗り、建具の修理、自転車のパンク、玩具の修理等々。隣組や町内の親睦には率先して活動していました。本当に器用でスーパーマンでした。 「厚生車」や「リヤカー」を運転する重労働に対して愚痴を言うことはありませんでした。主食の配給量が少し優遇されても子供たちの口に入りました。みかん農業を始めると「みかんの作り方」を先輩に聞きながら一生懸命に勉強していました。 原爆の放射能には勝てませんでした。絶対弱音を吐かない父が亡くなる数か月前から「体がだるい、体がだるい」と言って苦しんでいました。 父の死後は母一人になりました。兄は引き取ることを進めたが、子供に迷惑をかけたくないのか、母は「生まれ育ったここが一番いい、弟妹が多くて近くにおり、お寺参りができるので、ここが極楽じゃ」と言って村から出ることなく生涯を終えました。 以上 |
| サイズ(cm) | 42×29.7 |
| 展示の説明文 |