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被爆資料

識別コード 3105-0020
資料名
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 山本 弘子(ヤマモト ヒロコ)
寄贈者(英語) Hiroko Yamamoto
受入年月日 2016/1/5
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 300×3600
寸法(その他)
被爆地(旧町名)
被爆地(現町名)
爆心地からの距離(m)
数量 1
内容 飯田武さん・稔子さんは、昭和15年(1940年)4月2日に結婚式を挙げた。
昭和20年(1945年)4月、武さんは召集され、約2カ月後の6月、武さんは妻と二人の子どもを遺して沖縄で亡くなった。
昭和20年8月5日、稔子さん(当時25歳)は田舎に引っ越す挨拶のため、長女の眞基子さん(当時4歳)と長男の國彦さん(当時3歳)と一緒に水主町の実家に泊まっていた。8月6日、原爆の投下により爆心地から約1㎞弱の距離にあった家は倒壊。家にいた7人は皆どうにか脱出し、裸足で必死に明治橋までたどり着いたが、そこから先へは瓦礫や炎で進めなくなった。そこで稔子さんと2人の子どもたちは暁部隊の舟に救助され、宮島で数日過ごしたのち、山県郡の親戚宅へ移り、親戚の人たちの看病を受けた。しかし、原爆症によって髪は抜け、唇をはじめ体は青黒く変色し、発熱、下血、鼻血と症状は悪化し、9月4日、5日に稔子さんと眞基子さんは相次いで亡くなった。國彦さんも同じような状態で寝たきりだったが、どうにか一命を取り留めた。
これは稔子さんが婚礼の際着用した衣装で、被爆前日の8月5日に他の荷物と一緒に疎開させていたため無事だった。
稔子さんの妹・弘子さんが、戦後、自身の結婚式で着用し、今日まで大切に保管してきた。

山本弘子さんのお話から
生前、呑気な性格だった姉は、歌が好きで「流浪の民」は私が覚えるほど歌っていました。
被爆後、姉たちは、山県郡の親戚宅へ避難し、生活を始めました。当初は元気そうに見えましたが、間もなく熱が出始め、約一カ月後、姉は4歳だった娘と相次いで亡くなりました。姉はうわ言で「そんなにしたら行かれない」と何度も言ったそうです。
(戦後)厚生年金会館、中島小学校、萬代橋あたりに行く度に、我が家があった辺りを振り返り、「あの頃は父もいた。姉もいた。姪もいた。」と寂しい想いにかられます。あの原爆の時以来、広島の八月が憂鬱な夏となったのは私ばかりではありません。
ブロック別
展示説明文 婚礼衣裳
寄贈/山本弘子氏
飯田稔子(いいだ としこ 当時25歳)さんは、娘の眞基子さん(まきこ 当時4歳)と息子の國彦さん(くにひこ 当時3歳)、父・新中智惠松(しんなか ちえまつ)さん、母・文子(ふみこ)さん、妹・弘子(ひろこ)さん、道子(みちこ)さんと共に爆心地から約1㎞弱の水主町(かこまち)にあった実家で被爆。倒壊したした家からどうにか脱出し、皆裸足で必死に逃げました。明治橋付近で暁部隊の船に救助された稔子さんと二人の子どもたちは、宮島へ運ばれました。その後、山県郡の親戚宅へ移り、看病を受けた稔子さんでしたが、放射線の影響で、髪は抜け、唇をはじめ体は青黒く変色し、発熱、下血、細胞の壊死と症状は悪化し、9月4日、5日に、眞基子さんと相次いで亡くなりました。
これは、稔子さんが婚礼の際着用した衣装で、被爆前日の8月5日に、他の荷物と一緒に疎開しており無事でした。

稔子さんの息子・國彦さんのお話から
被爆前日の8月5日、私と姉は母に連れられ、引っ越しの挨拶の為、母の実家に泊まりました。翌6日に、田舎に引っ越す予定でいたのです。
救助された私たち3人は、山県郡の親類宅に身を寄せました。そこで母と姉は相次いで亡くなりました。苦しみの中、母は「夫に会いたい」「そんなに(親切に)してくれたらなかなか逝かれん。ありがとう」とお礼を言いながら息を引き取ったといいます。私も母たちと同じような病状でしたが、どうにか一命を取り留めました。被爆直後から、母の深い愛情に守られたからこそ生きることができたのだと思っています。すでに父も戦死しており、母と姉の死後、私を育ててくれたのは父方の祖母でした。優しかったその祖母も、被爆から約3年半後に原爆症で亡くなりました。
楽しかったことを思い出すと切なくて悲しくてたまらないので、思い出さないようにして、「おねしょをして叱られたこと」を思い出して寂しさを紛らわせました。
展示説明文(英語)
資料性質 被爆関連資料

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